Zenmai Domrai’s diary

小説・文芸その他についての好奇心の表明

夏目冬彦(創作)

 

 

 

 

 冬の朝、冬彦は早く目が覚めた。東にのぼる天動説のお日様が頬を盛り上げてニューッと左右に広げた口で笑いを表し、その笑いは自分の出番がきたことからくる勝利の笑いであった。お月様は打って変わって悄然とお空の下へと降りて浮かない顔つきで目蓋をわずかに動かし、片方の目でお日様をおもしろくもなく眺めやる気配であった。

 この刻限に一羽のカラスが冬彦の家の庭へやってきて「アホー」と鳴くかわりに喉をグルグル、ガラガラ鳴らしながら冬彦が気づいて近づいてくるのを待ち受けていた。冬彦はパジャマのままで庭に出ると、「おはよう、カラス。今日もいい天気だね。お日様が笑っているよ」冬彦の言う通り天動説のお日様は笑って、不気味な笑顔をたたえていた。冬彦はそのときカラスがくちばしに咥えているものに目を留めた。

「おや、なにか咥えているな。お便りかな? お便りコーナーかな? ─⁠─⁠そうかもしれない。親切なファンがぼくにレターを送り、カラスがそいつを届けてくれる。─⁠─⁠東京都の家きなこさんから。『冬彦さん、冬本番はこれからです。冬彦さんは夏目冬彦ですから夏に元気モリモリ冬は大つごもり、夏にも冬にも耐性がありそうですけれど、これからいちだんと寒くなりますから風邪とかインフルエンザとかインフルエンサーにご用心なさってください』ははあ、心のこもったあたたかいレターであるな。ありがたい、ありがたい。東京都の家きなこ君、きみは将来偉大な人物になるであろう」

 冬彦がまだ開封してもいない手紙の内容を想像してひとり悦に入っていると、カラスが不満そうに庭の木の上で「フフウー、グルグルグル」と唸った。目の前で四の五の抜かしてないで早くくちばしから手紙をとれ、という催促である。冬彦はカラスのくちばしからようやく手紙をとった。さあ開封、と思いきや、手紙はもとから封がしてなかった。

「少々不用心であるな」冬彦は手紙を見ながら思わず呟いた。「カラスに託した手紙だから中身がヒョイと飛び出してもほかの郵便に混じって困ったことになる懸念はいらないと言いたいのかな? 一体、どこのだれからの手紙だろう? 東京都の家きなこさん? いや、ちがった。夏目、春美。わがイトコからではないか」

 春美は冬彦のイトコでひと回り年が離れていた。冬彦の伯父が再婚してできた娘だった。子供の頃、冬彦はよく春美の遊び相手になってあげたものだ。春美ときたら子供のくせに天動説を頑なに信じなかった。冬は球体であるこの星が地軸から斜め上に傾くから寒くなるのだという。夏は逆に斜め下に傾くという。トンデモ説を連発する春美に、冬彦は半ば呆れ、半ばは女の子だから妙なことを考えるのかもしれないと思うのだった。『女の子は男とはまるきりちがう成分でできている』冬彦は春美の手紙をあけながら、昔から時々彼女に戸惑わされたことを思い出した。いまとなっては良い思い出だが。冬彦があけた手紙には猫の絵が描いてあった。春美の自画像のつもりらしい。絵の下に『冬彦へ。わたしは近く結婚します』と、だしぬけにそう書いてあった。

「結婚?」冬彦はおどろいて大きな声を出した。「春美のやつ、ついこないだ成人したばかりじゃないか!」

 手紙には、こうあった。『日曜日、公民館で結婚式を挙げます。メリー伯母さんを誘って一緒に来てください』結婚式への招待状なわけだ。冬彦の声を聞きつけて母親がやってきた。冬彦が春美からの手紙を見せると「おや、春美ちゃんはもう結婚かね。早いもんだね。こないだまで乳母車に乗ってたのに」と口にした。「わたしゃ、春美ちゃんの乳母車を押して買い物に行ったもんだ。ピーコックは遠いったらない」

「母さん、春美が母さんも式に来てほしいと言ってますよ」冬彦は手紙の主旨を告げた。「日曜日ならヒマでしょう?」

「行かれないことはないが、わたしゃ、春造さんに会うのがちょいと億劫だね」冬彦の母親は春美の父親の名を出して顔をしかめた。そのしかめっ面は、さしずめ朝になりお日様に出番を譲ったお月様さながらであった。「冬彦、お前わたしの代わりに春美ちゃんによろしく言っといておくれ」

「ハハァ」冬彦は腕を組むと「母さんは春造伯父さんと仲が悪いんだな。それで、伯父さんと顔を合わしたくないんだ。そうなんですね?」

「仲が悪いなんて大っぴらに言わないどくれよ。わたしゃ、春造さんが昔から春風みたいにフワフワと好き放題に生きてるのが苦手で、なんだか合わないんだ。あの人、二度目の若い嫁さんと急に結婚したかと思ったら春美ちゃんが生まれて。そしたら今度は春美ちゃんが結婚する番ときたもんだ」

「春美の番が意外に早く回ってきましたな」冬彦は出番の回転速度に感心して言った。

「冬彦、お前は人の結婚式ばかり出てないで、お前は結婚しないのかい?」

 母親は冬彦を睨むようにしてきいた。

「ぼくの出番はなかなか回って来ないようです」冬彦はあっさり答えた。「春美に先を越されましたな」

 世の中はなにごとも回って、天体が回るように番が回ってだれかの番がくるのだった。昔からそう決まっていた。たまさか番狂わせなんてこともあるけれど、大体において番は順当に穏当にくるべくして回ってくるものだった。春美の結婚もそんな万物の回転のなかのひとコマである。冬彦は空を仰いでそう思った。日曜日には春美が住む隣町へ出かけて公民館へ足を運ぶのだ。日曜日は今日のように晴れるといい。日曜日は待ち遠しい。日曜日は、─⁠─⁠『日曜日は今日ではないか?』─⁠─⁠冬彦はそれを電撃的に思い出し、頭の頂点に落ちた稲妻の指令によって春美の手紙を暦の観念を喪失した健忘症性若年アルツハイマー性失念者のそれだと決めつけた。

「春美のやつ、日曜日に届くように手紙を出すなんて、不届きものもいいところだ」冬彦はプリプリ、プンプン、プンスカ怒りながら母親に告げた。「お母さん、今日は日曜日でしたよ。春美は今日結婚式をするんですよ。それなのに今日になって手紙を届けるなんて、粗忽を通り越して懶惰ですよ」

「おや、そうだったかい」母親はどこ吹く風といった顔つき。「でもまだ早いから、いまから行けば式には間に合うんじゃないかい?」

「それもそうだ。しかし春美はなんだって式の当日に手紙を届けたんだろう?」冬彦は考えた。「いや、春美のせいじゃなくて伝書カラスの怠慢てこともありうるぞ。カラスのやつが手紙を運ぶのを何日もすっからかんに忘れていて、やっと思い出して飛んできたとか……全くインド人みたいなカラスだな」

 冬彦が庭を見るとカラスの姿はすでになかった。カラスに文句を言ってもしょうがない。それに、結婚式にはまだ間に合うのだ。冬彦はパジャマからジャージに着替えると冠婚葬祭に付きもののネクタイを出してジャージの上にじかに結んだ。それから家を出た。

 近所のバス停まで歩くと若い女の子がひとり停留所の前に立っていた。若いといっても春美よりは年上だ。着ているコートの裾から赤いストッキングに包まれた足が伸びていた。なかなか格好よろしい素敵なオネエチャンだ。『彼女も結婚式かな?』別に礼服姿ではないが、冬彦はそんなことを考えた。『だれの結婚式だろう?』だれの結婚式でもいいが、彼女自身はもう結婚しているのだろうかと思案した。身なりからして独身の女の子の浮ついた感じはしない。だがさいきんは浮ついた既婚者もありうる。子供がふたりもいる浮ついたお母さんとか。浮ついてるのは楽ちんだからな。一度浮ついたら、やめられない。たまんないよ。もう、ずっと浮ついていたい。『わたしは一生浮ついていたい』エッセイ集のタイトルなんだ。お日様はお空の真ん中で微笑んでいる。風は空気を集めて口をすぼめてゆっくりフウーとそよ風を吹く。穏やかな風とともに出会いも生まれる。生まれる、生まれたらいいなあ。バスが来た。冬彦はストッキングの女性のあとから乗り込んだ。

 車内は空いていた。冬彦は後ろのシートに腰かけて車窓を眺めた。窓の外を過去の人たちの思い出が横切っていった。冬彦はシートに深々と座りながら回想モードに入るべく言葉と体を調整していった。『わがはいは……』車内の平らなシートの上でおばあさんが咳をした。ストッキングのおねえさんは高い席にかけて氷山のてっぺんでスマホを夢中でいじっていた。『わがはいは夏目冬彦である』なんかヘンだ。仰々しい。もう少しくだけた感じに行けないものか。

『ぼくはいま動いている車のなかでひとり物思いに耽っている。物思い、沈思黙考に耽っている。物思うあまりに目にものもらいができたりしないことを切に、切に祈る』

 信号が赤に変わり、バスが停止した。

『小学校に入学した年、校庭のジャングルによじ登って、もといジャングルジムによじ登ってひとりでジムトレーニングしていると、ガキ大将となるべき同級生のハンサム太郎がやってきてせせら笑った。その当時太郎はまだガキ大将じゃなかった。手下も連れていなかった。ハンサムとも呼ばれてなかった─⁠─⁠やつは半沢というんだ─⁠─⁠太郎はぼくを見て言った。「よう、そこの唐変木。ジャングルジムでなにやってんだ?」ぼくは太郎にきかれて口ごもった。まず「とうへんぼく」の意味がわからなかった。肋木の類いだろうか、と思った。でもぼくが肋木の類いと呼ばれるのは不可解だ。ぼくが黙っていると、太郎は「そこから太平洋が地球の果てで滝になって雪崩れ落ちるのを見物してるのか?」とさらに奇妙なことをまくし立てた。

 ぼくはそのとき生まれて初めて天動説を支持するものの見解を聞いた……地球が丸い球形の天体じゃなくて平べったく広がった一枚の盤で、海洋の果てるところに想像を絶する大大大大瀑布が雪崩れ落ちているなんて、考えたこともなかった。太郎の説はもしかしたら父親の受け売りだったかもしれない。ぼくは太平洋が滝になって凄まじい轟きを立てるのを思うとゾッとした。だが同時に気になったことを太郎にきいた。「滝になって落ちた先にはなにがあるの?」すると太郎はにべもないというふうに答えた。「決まってる。地獄さ」

 ハンサム太郎は地獄が死後に逢着するところではなく海が終わる、海が終わってしまう、海が海でなくなるところにあるのだと固く信じていた。もちろん校庭のジャングルジムの上からは海の尽きるところが見えるはずもなかった。高さが足りないんだ。もっと、もっとすばらしく高くなければ、地の果ては見えないだろう。バベルの塔のてっぺんからでも見えるかは怪しかった……バベルの塔が海洋の雪崩れ落ちるすぐそばに建っていたら別だが……』

 なにごとにも適切な高さがある。演説には演説に、火の見やぐらには火の見やぐらに、風見鶏には風見鶏にふさわしい高さがあるのだ。冬彦がそう得心したとき、バスは大通りの角を曲がり環状道路へ入った。しばらくおもしろくもない景色がつづくだろう。地下鉄駅の前の信号でまた停止した。

『風見鶏「大工よ、屋根の梁を高く上げよ!」

  大工「言われなくても設計書通りに建てますがな」』

 駅前のバス停で、何人か乗り込んできた。外国人らしいふたり連れがお喋りしながら腰を落ち着けるべき場所を詮議して、シートのひとつに並んで腰かけた。男女のペアだった。『夫婦だろうか?』冬彦は思案した。夫婦でこの国になにを見聞しにきたのだろう? マルコ・ポーロという商人が広めた評判ならとっくの昔にデマだとバレている。バレない嘘がまだこの国の周囲にわだかまっているのだろうか。─⁠─⁠遠くの星からこの星へはるばる人がやってくることもある。

『星から来た異星人のウレタラマンは夜空を仰いで遠い星を見つめました。いまの彼には遠い星が心の支えでした。星を見ながら、ウレタラマンは悲しげに呟くのでした。「おれももう少し売れたらなあ!」星の仲間のなかでウレタラマンはなかなか芽が出ず、コールセンターで時給の安いオペレーターをしながらカツカツの生活に身をやつしていました。

 ウレタラマンは星から来た仲間で、すでに売れたウレトルセブンから「上司の指令に忠実に動くことだよ」と助言をもらいました。上司とは職場の上司ではなく─⁠─⁠コールセンターのオペレーターに上司も部下もへったくれもあるものですか─⁠─⁠ヒーローの守護霊として彼の活躍を見守る影法師のことです。セブン上司はセブンに暗い部屋のなかで冷厳に告げました。「モウヤメロ。オマエハ限界ダ」セブンはセブン上司の指令を受けて、もうこれ以上頑張らないほうがよいと決意したのです。引退会見でセブンは並みいる記者に頭を垂れました。「体力の限界」それを口にするとセブンの目から涙が伝い落ちました。─⁠─⁠実のところ、世の中は新世代のニューヒーローを求めていたのです。ウレトルセブンはセブン上司の指令に従って戦いをやめ、同僚に自分の氏素性をカミングアウトし、照明をキラキラと反射する光る幕を持ったスタッフがセブンたちを夜の向こう側へと浪漫的に送り届けました。

 ウレタラマンは明日のコールセンターでの仕事を思って憂鬱になりながら、自分には才能が足りない、いや、才能以前に肝っ玉が足りないのではないかと自信のなさを痛感するのでした。「ガッツ星人なら、うまくやれる。あいつにはガッツがある」ため息をひとつつくと遠い星を再び見つめました』

 バスは環状道路から直角に曲がり、長い車体を直角に折り曲げるガッツを示した。『なかなかやるな』冬彦はバスの豪胆さにほくそ笑んだ。聖家族キリスト者会の教団母子寮の前にある停留所で、氷山のてっぺんに鎮座していた赤いストッキングの女性が氷山から下山してバスを降りた。『彼女は母子寮の住人であったのか』冬彦は解せない顔つきで下車したおねえさんの姿を目で追った。おねえさんは母子寮へとつづく細い坂道に入り、建物と建物のかげにもぐり込んで視界から消えた。『てっきり医者の愛人だと思っていたのにな─⁠─⁠』冬彦が人聞きのよろしくない臆測を自分勝手に膨らましたとき、あの赤いストッキングは診療所の診察室から出てきた医者を事務室の半びらきのドア越しに誘惑するためのものでなく、聖家族の母子寮の古くて冷たい板敷きの廊下を歩くための防寒用であることにまたしても電撃に撃たれたように心づいた。『寮は年代物だからな』古くなったからとて安易に建て替えたりリフォームしたりしない。聖家族は、聖なる家族は、物を大切にする。電気も大切にする。東京電力のでん子ちゃんは電気を大切にしている。『電気を大切にね!』東京万力のまん子ちゃんは

 ─⁠─⁠下ネタになりそうなので一行削ります─⁠─⁠

『寒い、北風がピューピュー吹く日の昼下がりだった。風が天空のなかほどで腕にご自慢の力こぶを作りながら口からフウーフウーとあらん限りに勢いよく風を吹きまくり、それが証拠に地上には冷たい風が乱れからくり吹きすさんで木枯しの回転アクロバットさえも芸の見せどころとばかりに渦巻いていた。わがイトコの春美が高校の制服の上にコートを着て、脚には赤いストッキングをはいていた。赤いストッキング? ─⁠─⁠若い女はみな赤いストッキングをはきたがるものなのさ─⁠─⁠ぼくたちは寒い路上からカフェのなかへと避難した。

 ぼくと春美はコーヒーを飲みながら風が空の上で頬を膨らまして風を吹きまくり、調子に乗って口笛を吹いてるのではないか、それが低い地上にきてピューピューと風の歌になって聞こえるのではなかろうかと議論した。つまらない議論のようだが、目玉焼きにかけるべきものが醤油かソースかで議論するよりは有意義だとぼくは思う。春美はぼくの意見にさして興味があるふうでなく、ほかの客の、椅子に向かって語りかけている幼い女の子をじっと見ていた。椅子に語りかける? ─⁠─⁠そう、女の子はまさしく椅子に語りかけて、椅子を相手にお喋りしていた。それというのも彼女の母親は向かいに座る女性とお喋りするのに夢中であり、大人同士のお喋りには幼い子供が入り込む、入り込んで愉しむ余地はなかったからだ。

 だから幼い女の子は椅子とお喋りしていた。椅子の背もたれは彼女よりも背が高く、堅牢であった。座面から伸びた数本の木の柱がてっぺんの横棒に束ねられて、さながら建造物のようであった。この特質からして幼い女の子が見つけ出した世界は、椅子の背もたれの柱と柱の隙間からお人形が通り抜ける世界だった。彼女が手にした人形は仔猫をかたどった著名なキャラクターで、いまでは「私の旋律」とか「肉桂」とかの分派的キャラクターまでもが出揃っている。彼女が所持していた仔猫は最もクラシカルな、したがって最もよく知られた直立二足歩行する仔猫にほかならなかった。彼女は手元の仔猫を椅子の背もたれの柱の隙間に器用に出し入れしていた。もっとも、動きはそんなに速くなかった。なぜなら仔猫はだれかの─⁠─⁠親類かお友達か、さもなくば道で知り合った親切なだれかの─⁠─⁠家にたったいまお邪魔するところだったのである。「こんにちは!」「こんにちは、いらっしゃい!」「お邪魔します!」「どうぞ、ごゆっくり」仔猫を家に招き入れた主人は不可視の存在で、透明であった。幼い女の子は仔猫の人形ただひとつしか所持していなかったのである。彼女は見えないホストと来客の仔猫をかわるがわる演じた。椅子で行われた一連の遊戯は、春美の胸に小さからぬ感銘を与えた模様であった。少なくともぼくの風についての講釈よりは椅子の上のオママゴトに惹きつけられていた。春美はひとしきり遊戯を眺めてからポツリと呟いた。「わたしたちも、この猫と一緒ね。出たり入ったりするだけなのよ」

 春美の呟きが的を射ていたことはぼくたちがカフェから店の外へ出るときに確かめられた。ぼくは椅子の背もたれを通り抜ける仔猫であった。春美もまたそうだった。背もたれからペッと吐き出されて、ぼくたちは戸外の寒さに首をすくめた』

 バスはゆっくりと徐行して駅前のロータリーにある停留所に到着した。終点だった。冬彦はほかの乗客のあとからついて行き、タラップを降りた。ここから春美が結婚式を挙げる公民館まで目と鼻の先だった。冬彦は坂道を上がり、公民館へとつづく舗装道路の上を歩いた。隣町にある公民館へ行くのは何度目か忘れた。冬彦にはこの舗装道路の表面のすべすべ具合が気になっていた。舗装がすべすべ、つるつるしていた。雨が降ると水に濡れて滑って転びそうになる。冬彦の靴がはき古して靴底がすり減ってしまっているせいもあった。でもどんな靴も、靴底もこの道路は滑りやすいにちがいないのだ。『雨の日に受験浪人生を集めて駅から公民館へ歩かせたらよい』冬彦の頭に意地悪な考えが浮かび、彼はニヤニヤした。『滑って転んで、さあたいへん。滑った浪人生に近づいて言ってやろう。「おや、スベりましたね!」ムッとして立ち上がる浪人生にさらに追い討ちをかける。「いやあ、あなたはみごとにスベるお人だ! きっと、またスベりますよ!」』冬彦がいたずらを考えながら悦に入っていると、公民館の赤い屋根が見えた。駅からすぐ近いのだ。

 公民館のドアをくぐるとロビーの受付に若い女がいた。昨日雇われたばかりといった感じだった。冬彦が「今日ここで結婚式があるのですが、会場はどこでしょう?」と受付の女にきくと、彼女は迷うことなく「最上階の多目的ホールになります」と答えた。今日ここで式を挙げるのは春美たちだけらしい。受付の女はつけ加えて言った。「でも、式の開始は正午からです」冬彦は言われて腕時計を見た。まだ十時だった。早く来すぎたようだ。『春美の手紙に時刻が書いてあったかな?』冬彦は頭をひねった。『いや、書いてなかったろう』どうもイトコのやつは気が利かない、親切心が足りない、粗忽で間の抜けた、いい加減なやつである。冬彦は春美が心配になった。いまだに子供のときと変わらずにちっとも成長していない気がしたのだ。『大丈夫かな? 結婚してうまくやっていけるかな─⁠─⁠』夫婦で生活していくのはなかなかたいへんである、たいへんなはず、である。独身の冬彦が言うのはおかしいようだが楽々で楽チンなわけがない。しかし本人が決めたことだから仕方がない。『春美が決めたのだし、伯父さんも許してることだしな』冬彦は心配するのをやめた。

 冬彦は暇になって公民館の外に出た。なんとなく建物の外周をぶらついた。お日様は空の上に昇り、雲ひとつない晴天にご機嫌でニカニカ笑っていた。お日様の笑顔はニューッとひん曲がった口の左右を盛り上がった頬の丘が囲んで不気味だった。『ああ、燃える』お日様は笑いながら燃えさかるのだ。『燃える燃える、すごい燃える、顔も髪の毛も燃えている』冬彦はお日様を一瞥して思わず呟いた。「燃ゆる頬」そう、お日様は燃ゆる頬に目がない。『燃ゆる頬はリンゴのようにリンゴ病のように赤いほっぺたでした。お日様はいつまでもあの頬を忘れられずにいるのでした』

『お日様は中天に到達する手前で空に立ち止まり、書割の後ろでハンドルをぐるぐる回す係のものに目配せして近寄らせると、あふれ出る想い出話を堰を切ったように語るのでした。

「わしは、高等学校で同級だった女の子の頬がリンゴのようにリンゴ病のように赤く赤く燃えているのに焦がれておった。同級生の何人かは彼女の頬がやけに赤いのを『リンゴ病』と呼んでからかっておった。彼女もイジられキャラをもって任じておった。でもわしは、リンゴのような、リンゴ病のような頬をした彼女が好きじゃった。ああも血色が良いのはいまだけかもしれない─⁠─⁠彼女が成年に達したら─⁠─⁠それは時間の問題じゃった─⁠─⁠彼女の頬からは燃える炎が消え失せてしまうだろう。彼女の頬は陶器のように白くてすべすべした冷たいものになってしまうのだ。ああ、そうなる前にわしは彼女を射止めたかった!」 「卒業式の前日に千載一遇のチャンスがめぐってきたんじゃ。わしは式を行う体育館の二階へとつづく渡り廊下で、彼女とふたりきりになれた。『きみが好きなんだ』とか『わしと付き合ってくれないか』とか、お定まりのセリフを用意してた。ところが、なんてことだ、いざ渡り廊下に彼女とふたりきりになると、わしのガッツは空気の抜けた風船並みにしぼんでしまった。わしは彼女を前にして『おお、リンゴが食べたい!』と予定にないことを口走ったんだ─⁠─⁠その結果はわかるじゃろ? ─⁠─⁠わしは永遠に彼女をとり逃がした。卒業式は暗闇に包まれておった。あれから何十年、何十億年たったか忘れたが、わしはいまだにリンゴ病の燃えるほっぺたを探しつづけておる」

 係のものはお日様の想い出話が終わると無表情で壁についたハンドルをぐるぐる回しました』

 冬彦は建物の外周をひとめぐりして、もうひとめぐりしようか思案し、寒いから一旦なかに入ることにした。公民館のドアを再びくぐると予期せぬ声が冬彦に浴びせられた。

「あら、冬彦!」ほかでもない、春美が立っていた。「来てくれたの、ずいぶん早いのね?」

「春美の手紙に時間が書いてなかったから、知らずに早く来ちゃったんだよ」と冬彦。

「あら、そうだっけ?」春美は他人事のように言って「メリー伯母さんは? 今日は冬彦ひとりなの?」

「ああ、母さんは、春造伯父さんが」冬彦は言いかけて口をつぐんだ。いかん、いかん。本当のことを言ったら母さんに怒られる。「母さんは体調が悪くてね。今日は残念ながら行かれないんだ」

「具合が悪いの?」春美は真に受けて「インフルエンザかなにか? 伯母さん、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよ。そんなにひどいんじゃないよ、ただの風邪だから」冬彦はたまにしかつかない嘘にしどろもどろ。「風が口をすぼめてヒョットコみたいにフウーフウー北風を吹いたもんだからね、風邪引いちまったんだよ」

「わけわかんないこと言わないで」春美はきつい顔つきで「伯母さんに、お大事にって言っておいてね」

「ああ、全然大丈夫だよ、すぐ治るよ、たぶん」冬彦は面倒なことになるのを恐れながら「母さん、今日の夕方にはピンピンしてると思うよ、うん」

 そのとき春美の背後から黒い上等なジャケットを着た若い男が近づいてきた。

「春美、とんがり帽子のコーンが……」

「あ、忘れてた」春美は言って「冬彦。これがうちの人だから。初めて、でしょ?」

 冬彦はどうやら春美の夫君となるべき男らしいのに気づいてお辞儀した。

「はじめまして、秋山です」若い新郎はにこやかに笑って握手を求めた。「春美の、イトコの方ですか?」

「夏目冬彦です。春美のイトコです」冬彦は握手した。「春美をよろしく。春美はお転婆じゃないけど、ちょっとうっかり屋で粗忽もので間が抜けたところがあるから、めんどくさいでしょうけど面倒を見てやってください」

「そこまで言われる筋合いはないわよ!」春美が憤然とした。

「そういや、春美はどうしてウェディングドレスを着てないんだ?」『結婚式といえばウェディングドレスだろう』と思いながら冬彦は素朴な疑問を口にした。

「これから着替えるのよ!」春美は言った。「あんたが来たのが早すぎるんだよ、もう!」

 冬彦は合点がいき、頭を掻いた。新郎はその場を離れた。おそらくとんがり帽子のコーンだかの様子を見に行ったのだろう。冬彦はとんがり帽子とコーンの関係について頭をめぐらせた。『春美のあの旦那がとんがり帽子をかぶるのだろうか?』結婚式の新郎にとんがり帽子は似合わない気がした。『さりとて、春美に似合うとも思えないが─⁠─⁠』

 考え込んでいると、春美が冬彦のジャージの袖を引っぱった。

「どしたの?」冬彦がきいた。

「冬彦。わたし、とうとうお嫁に行くわ」春美の目はなぜか潤んでいた。「冬彦も、早くお嫁さんもらってね?」

「もらえるといいけど、こればっかりは番が回ってこないとどうにもならないからな」と冬彦。

「わたしは冬彦のお嫁さんになれなかったわ」と春美。

「当たり前だろ。春美はイトコなんだから」

「イトコ同士は結婚できるのよ」春美は冬彦を上目遣いに見て「でも、彼と結婚することになっちゃった」

「幸せにおなり」冬彦は年長者らしく春美の背中に腕を回して抱いた。「春美は小さいときから、いい子だったよ。だからきっとうまくいくよ」

 春美は涙を隠すようにして冬彦の腕から離れると、いちもくさんにどこかへ駆けて行った。『とんがり帽子のコーンが気になるんだな』冬彦は思った。『ぼくも気になるといえば気になるが、彼らとちがってどうすることもできない』冬彦はジャージの胸にネクタイを結んだ酔狂な姿で公民館の壁に寄りかかった。『そう、どうすることも。彼らの式は彼らがやりおおせるべきことなんだ』考えて、はたと膝を打った。『とんがり帽子とやらを、ぼくがかぶればいいんじゃないかな?』

 ひらめいた妙案を実行に移そうと壁際から離れたとき、公民館のロビーにどやどやと人がたくさん入ってきた。見れば親類の知った顔ばかりである。親類はみな礼服を着ていた。ジャージ姿の冬彦を目にして、彼らは口ぐちに不謹慎だのマトモじゃないだの昔からお前というやつはだのと言い出した。冬彦は烏合の衆に揉みくちゃにされながら動くのもままならず人波に流された。親類たちは冬彦を高く担いで「ワッショイ、ワッショイ」と雪崩れを打った。彼らはこのまま天動説の海洋が尽きて滝になるところまで冬彦を運んでゆき、冬彦を奈落の底へと投げ込むつもりにちがいなかった。

 

 

 

 

                    完