短編小説一篇にひと月余りかかずらったせいで、次の作品に着手するために一旦表現のモードを転換することになりそうである。というのは似たようなものを続けて書く気がしないからだ。次回書くものは「もんもんバラエティ」よりずっと短い短編にしたいと思っているけれど、いずれにせよ書くためには準備しなくてはならない。といっても資料集めや取材ではない。拙作はそんな作業は必要としない作風である。執筆に向けて気分と言葉の使い方を調整していくことがぜひとも必要なのだ。
原稿用紙二〇枚以下のごく短い短編を書きたいが、自分にこれくらいの長さの短編を毎週のように書いていた時期があるとはいえ、おもしろい作品にするのは容易ではない。目下のところ、頭のなかは真っ白である。読書にもあまり熱が入らない。さいきんは本屋で『おしりたんてい』シリーズの新作を立ち読みしたのと自宅の蔵書を読み返しているだけである。牧野信一の短編を幾つか読む。「バラルダ物語」「吊籠と月光と」「村のストア派」など。昭和初期に「ギリシャ牧野」の異名をとりモダンでハイカラな作風といわれた作家だが、基本的には私小説のヴァリエーションである。露骨な私小説や心境小説ではないだけで、昨今まで続く純文学小説のありようの原型に近いかなと思わされる。牧野信一のペダンティックでもったいぶった息の長い文章は好き嫌いが分かれるだろう。ただ、日本の田舎を舞台にしてヨーロッパの牧人小説ふうな作品を書いたのは意外な創見と思う。「バラルダ物語」のバラルダとは古代ギリシャにあったバカでかい打楽器で日本の水車くらいのサイズだという。つまりバラルダ物語とは太鼓物語であり、同時に水車物語でもあるわけだ。牧野が西洋と東洋の意匠のうわべの差異にこだわらずに文化的なアマルガムを言葉によって実践していたのは確かで、文章の乱雑さに眉をひそめる人がいたとしても、牧野の小説がそれなりに魅力的なのは間違いない。
僕は学生の頃に友人の紹介で某批評家に会って当時の習作を読んでもらい「牧野信一を連想した」と感想を言われたことがある。牧野信一は知っていたけど、影響を受けるほど愛読したことはなかったから批評家の感想を意外に感じた。十八歳のときで、批評家に読ませた習作は高校時代の文芸同人誌に寄稿したものであった。全く稚拙な作文にすぎず、あんなの読ませなければよかったと今は思う。だが牧野信一を連想したというのはその当時から拙稿にはアリュージョンが頻出していたせいかもしれない。当時の習作に入れていたのは系統立ったアリュージョンではなく、「もんもんバラエティ」に入れたM・ルブランや阿部次郎などのパロディめいた短い恣意的なアリュージョンに等しい。たまたま思い出して無造作に並べたようなくだりが出てくる。ポストモダニストが文化的文脈を意識に浮上させるためにやったような引用やアリュージョンとは関係ないのである。当時の習作は文体を確立する前のものだけど、作風は今と大して変わっていない気がする。
現在の拙作が牧野信一に似ていないように、学生の頃の習作も牧野には特に似ていない。ただ牧野のペダントリーと西洋もののランダムなアリュージョンが多少似ているかな、と感じる程度だろう。牧野と拙作が決定的にちがう点は関心のベクトルに如実に表れていると思う。牧野信一には世間のふつうの俗人に通じるところがかなりあって、「バラルダ物語」におけるドラマの作り方はベタな構図を踏襲している。粗暴で好色で奸智に長けた債権者から狙われた愛らしい居酒屋の看板娘を守って、同じく債権者に追われている剛力無双の気の好い青年とくっつけようと画策する話である。僕も悪どい取立てをする債権者は嫌だけど、そもそもカネの貸し借りが嫌いなので、カネを貸す人にも借りる人にもどちらにもあまり同情しない。大恐慌時代には借金せずに生きられない貧しい人々がいたのだという時代背景を考慮すべきだと言われたら、特殊な時代にしか通用しないフィクションはいかがなものだろうかと首をかしげてしまう。でも本当は牧野信一は時代と関係なしに世俗の人間関係に執着する人だったと思う。人間同士が利権をめぐって争うありふれた現実、狭い世間のなかに生起する人間関係を描かないと満足できない人なのだ──牧野信一が自然主義の末流と評されるゆえんはそんなところにある──彼も人付き合いを生きがいにするフツーの人なんだなと感じて肩をすぼめるばかりだ。
では、お前の小説は牧野とちがって仙人みたいに超俗した孤高の作風なのかとまぜっ返す人がいそうだが、当然ながら拙作は仙人の境地とは程遠い。僕も俗人である。ただ人間がこしらえた社会の価値観を重んじる気になれないし、それに興味がないのだ。日本社会の価値観には賛同できないが他国の社会の価値観になら馴染めるとかそんな話ではない。国を問わず、人間社会そのものがどうでもよいと本気で思っているのだ。社会は我々の世界のなかで最もつまらないものである。牧野信一からはこんな見解は決して出てこない。牧野は社会的な価値観から逃れられない人で、弟子の坂口安吾は牧野の住居を「オモチャ箱」だったと述べたが、安吾には師匠が社会の価値観に束縛された哀れな人に見えていただろう。
まあそれはさておき僕が小説でやりたいことは牧野信一とはだいぶちがうのだ。牧野信一に魅力がそなわっているとしても彼はマイナーポエットたらざるを得ない個性である。僕は牧野よりもすごい小説家が何人もいると思っている。そのひとりがエミリー・ブロンテである。彼女の小説で現存するのは『嵐が丘』ただ一篇というのもすごい。しかしエミリーは『嵐が丘』完成後の彼女の短い最晩年に至っても、少女時代から妹のアンと共作していた「ゴンダル物語」を書き継いでいたか、それの補遺を書いていたらしい。最晩年の作と推定される詩が遺されている──エミリーの詩は後代になり判明したが、大半が「ゴンダル物語」に挿入されるべく書かれた作中詩である──「なぜ日付を、気候を知りたがるの?」と題された詩(原題「Why Ask To Know The Date—The Clime?」)は『嵐が丘』刊行後に書かれたとされており、『嵐が丘』を完成し発表した後もエミリーが妹とのリレー小説を継続していたことが窺い知れるのだ。実際に「ゴンダル物語」本編を書き継いでいたかはともかく、補遺的なテキストであるゴンダル詩は書いていたわけで、エミリーが死ぬまで小説というオママゴトのマニアだったことを感じさせる。エミリーは十代のときから妹のアンと「ゴンダル物語」を好き放題書いていたようだ。この共作リレー小説が散逸してしまったのは残念だけど、遺されたゴンダル詩からわかるのは彼女が最期までオママゴトの夢を育み続けていたことと、『嵐が丘』は実はそんな夢のひとつだったことである。
エミリーのゴンダル詩を詩として評価することは僕にはできない。翻訳を読んでも僕にはゴンダル詩が小説の作中に書き込まれた枠物語の一種のようにしか思われないからだ。しかし「ゴンダル物語」本編が失われて、作中詩のほうが残っている現状にはなんともヘンテコな気分にさせられる。「なぜ日付を、気候を知りたがるの?」を読む限り、ゴンダル物語はホーマーの叙事詩のように壮大な内容で、戦乱と戦闘による負傷や犠牲を描いたものらしい。『ゲド戦記』みたいだ。僕はその種のフィクションにはあまり惹かれないから、もしも将来的にブロンテ姉妹の「ゴンダル物語」が部分的あるいは完全に近いかたちで発見されたとしても、『嵐が丘』ほどおもしろいと思わない可能性がある。エミリーの変態的才能は『嵐が丘』のふたつの家族間で婚姻相手をトランプのペアよろしく取り替えっこする荒唐無稽なプロセスに発揮されたので、スケールの大きい戦争や俘虜などのシチュエーションは彼女の想像力の範囲を超えてしまっている気がする。もっとも、実際に「ゴンダル物語」本編のエミリーが書いた稿が見つかったら作中詩に詠われているような内容とは別のいかにもエミリーらしいオママゴトが繰り広げられているかもしれないが。
エミリーが『嵐が丘』によって彼女の存命中に姉のシャーロットに匹敵する人気と名声を獲得していたら別だが、『嵐が丘』が正当な評価を受けたのはエミリーの死後半世紀を経てからである。そのせいか、僕はエミリーの書き手としての生きざまにヘンリー・ダーガーに類似したものを感じてしまう。もしエミリーが職業作家として華々しく次作を期待され、人気と世評に応えるべく仕事をしていたらそんなふうには見えなかっただろう。ヘンリー・ダーガーが個人的な愉しみのために密かに『非現実の王国で』を書き続けて、ケチンボが小銭を貯め続けるようにタイプ原稿を蓄えていたことを想起すると、商業向けに制作したとは決して思えない「ゴンダル物語」を書き続けたエミリー・ブロンテはダーガーの秘密の愉しみにも似たオママゴトの狂気を炸裂させて『嵐が丘』を書いてしまったのだと思えてならない。読者は基本的に姉妹だけであり、作品を出版したことで広がりを見せたが、病気は彼女を長くは生かさなかった。従って結果的にではあるが、エミリーの作家人生はダーガーの孤独な作家人生に接近する。姉のシャーロットの場合はエミリーほどオママゴト色が濃くない。というのは姉妹の作風のちがいに由来するのだが、シャーロット・ブロンテは作品世界にまだしも一般性があり、エミリーみたいなめちゃめちゃをやらなかったためである。
シャーロットは妹のエミリーこそが小説家として真の才能があることを見抜いていたと思える──それだけにシャーロットはエミリーの死後、彼女に自作を読ませて感想をもらえなくなったことを深く悲しんだ──エミリーが小説の変態であったのは姉のシャーロットや同時代のE・T・A・ホフマン等と比してエミリーのほうが巧みな書き手だったからではない。その逆にエミリーはシャーロットやホフマンがやろうとしなかったヘンテコなことに血道を上げたのだ。エミリーの創作は室内で演じるオママゴトの域を出ない。だが、ひとりの書き手にそれ以上のことができると思うのは単なる思い上がりにすぎない。リヒャルト・ワーグナーやトルストイのような壮大な記念碑的な仕事は、僕には小説家がやるべきこととは思えない。僕は小説とは孤独のなかで密かに営まれる個人的な愉悦の産物だと確信しているのである。
これから書く短編も僕のオママゴト、と言ったらいい年したおっさんのくせにと言われそうだが、ヘンリー・ダーガーが新聞の切り抜きから想像を膨らまして書いたような無茶な小説にしたい。書き手個人の孤独の度合いが深まるほど小説はおもしろくなる。小説家が大向こうを相手に「やあ、みなさん」とよそ行きの笑顔をたたえながら作物を披露するのは目立ちたがり屋の芸能人がやることで、小説家の仕事とは思えないのである。