──おれはジャングルだ。おれの股間はジャングルで、おれのふるさとも夜の夢も頭のなかもジャングルだ (密林の書)
私は小屋に入ると物書部屋に入った。部屋の机に向かい椅子にかけると机上のノートの白紙が目にしみたため、紫煙が目にしみるように目をつむって椅子のすぐ傍らにあるベッドに倒れるように横たわった。ああ、私はそのしぐさをいままで何百回くり返してきたことだろう! 私は机に向かってしばらくのあいだ自分にジャングルのことが書けるかどうか待つのだった。書けるかどうかは便通を待つのと一緒でごく自然に便意が催されるのを待てばいい。待てばいいしマテバシイ、ジャングルは私の大便のように出てくるのだ──ところで私はこんなに汚い(尾籠な)話をするつもりではなかった──私はきれいなジャングルの話をするつもりだった。きれいなきんたまの話をした男の子がいつの間にかクマのぬいぐるみに化けていた故事を耳にしてから、私は汚い話をするのを恐れている。
だが今朝も私はジャングルのことが書けなかった。私は小一時間机に向かって頬杖をつきながらジャングルが私の腸(はらわた)をくぐり抜けるように脳内から蠕動とともに現れ出るのを待ち受けた。でもダメだった、今日も便秘だ、ああ、クソ! 鉄の便器に跨がって出ないウンコとにらめっこ。私にはジャングルのことを書きとめる使命があるというのに、出てくるのは麗しきジャングルにあらずして汚い話ばかりだ。ところで私はついこないだジャングルにあるレストランで隣の席の男子高校生たちが交わしていた愉快な冗談を思い出した。「お前、ウンコ?」と彼らは交互に口にした。
もしもあなたがウンコなら
わたしもきっとウンコです
『もしもわたしがベルならば……』というより清潔な歌を思い出す人はさいわいなるかな。あのベルの歌が学校のチャイムを想わせるピアノから開始されるように、ジャングル高等学校の男子生徒たちはチャイムとともに席を立ち、チャイムが鳴り終える前にまた席に戻ってくるだろう。便意とともにウンコが出るように天然自然なサイクルだ。私の机とベッドの往還もまた何万回となくくり返されるサイクルで、私は生きている限り数限りなくそれをくり返すだろう。ジャングルの本はすでに数巻に及んでいるが終わる見通しは立たない。私はきっと死ぬまでジャングルの本を書きつづけるだろう。毎日便器に跨がってウンコを出すように飽くことなくくり返されるのだ。『壁に向かってボールを「無限に近い回数」くり返しぶつけつづけるとボールは壁を通り抜けるというトモナガ博士の学説に従えば、私は無限に近い回数同じ暮らし方をくり返せばジャングルの向こう側へ脱出することになる』それは困る。くり返しが無限に近づく前に私は小休止して天に召されることにしよう。
ところで私の物書部屋はお察しの通りごく狭い。お寺のお堂のなかのようなだだっ広い空間の片隅に机と椅子とベッドをくっつけて暮らしていたとしたらなんだかアンバランスでピカソが描いたイカルスの墜落のようだしブリューゲルが描いたイカルスの墜落のようでもある。私(イカルス)は大きな画布の一隅に海に墜ちて溺れている。そんな構図は私の好むところではないから私は机と椅子とベッドで室内がいっぱいになる狭い部屋にいるのだ。この物書部屋のなかで私は物書をするし寝てもいる。ここで食事をすることもあるが食べ物は大抵カップラーメンだ。私はカップめんを酷愛する男である。物書部屋でカップめんを食すときはベッドに腰かけている。立って食べることもある。しかし机に向かい椅子にかけることはしない。机と椅子はジャングルの本を書くための専用だからだ。物書部屋は読んで字のごとく物書を目的にした部屋で、私が寝たり食べたりするのは生活上やむを得ずにそうするのだ。この部屋の隣には台所がある。トイレがあり浴室がある。この小屋にあるのはそれだけだ。
なにを隠そう、私は物書小屋を死んだ父から譲り受けた。私が父親から相続したのはこの小屋だけだ。父は建築家だった。この小屋で設計することもあったし図面を机に広げながらジオラマ用の小さな人形を図面に立てて遊ぶこともあった。晩年の父は建物とその外周を模したジオラマの庭の池に人形がはまって逆立ちして『イカルスのように溺れて』死んでいるところを工作して『金田一さん、事件です!』と題してコンペティションに出品した。結果はみごと落選したが、審査員の厚意で「ユーモア賞」というのを受賞した。ところで私は父がジオラマに題した金田一なる人物をよく知らないのだが、百日紅の木の下でサルが滑り落ちるところを目撃した探偵なのだろうか? 亡き父は食う寝るところに住むところを提供してクライアントからそれなりの報酬を得ていた。私が生まれ育った実家もジャングルのなかで甚だ個性的で魅力的な家だった。にもかかわらず私はそれらを相続せず、ただこの物書小屋だけを譲り受けた。父には家族に知られていない負債があった。父が死んだあとで私は返済に追われて家屋敷を手放したのである。
「悪いね」と債鬼、いや債権者のジョージはアロハシャツを着たハワイ島の人買いのごときいでたちで私に言った。「住むところを追い出すようで、わたしも心苦しい。でもわたしが義務からやむなくしているのを理解して欲しいね。わたしには若い人の住居を奪う趣味などないのだからな」
「ぼく、もうそんなに若くありません」私は肩をすぼめて言った。「それに物書小屋に住めるならそれで十分です」
ジョージはニヤニヤ笑って私を眺めた。この男には影男のようなところが、影に隠れてトカゲのようにすばやく動く怪人物ふうなところが見受けられた。ジョージ・トコロというフルネームを聞けばだれでもなるほどそんなところがあるなと首肯せらるるはずだ。ジョージはむろん私よりだいぶ年上で、このジャングルに絡みつく植物の根のように先祖代々根づいた一族の末裔だった。私は父の代からジャングルに移住した新参者に属する。他所からのニューカマーである私はしかし生まれ育ったジャングルをだれよりも愛しているし、私より根深くジャングルにつなぎ留められたジョージよりも私の愛は深いにちがいない。私はジャングル人間だ。ジョージはアロハのいでたちからしてジャングル人間らしからぬところがある。
私はジョージを影男だろうと推察し、私のジャングルの本に彼が歌うかもしれない影男の唄を書きとめた。
暗い部屋にひとりきり わたしはまるで影男
影を慕いて影をまとう わたしはきっと人トカゲ
私がジョージのことを初めてジャングルの本に記したのは彼がジャングル人間の『フリ』をして自分をジャングル人間になぞらえたある日のくだりだった。
『『影男』ジョージ・トコロはアロハシャツを着て頭に山高帽子をかぶったミスマッチングな姿でジャングルのとば口に立ち、そこに生えた一本のプラタナス(すずかけの木)を惚れぼれと仰ぐのだった。ここいらに生えている木は本当のところこのプラタナス一本だけだった。山高帽子の上にプラタナスの扁平な葉がハラリと落ちるとジョージは帽子に降りかかったその葉を優雅な手つきで払いのけた。「こうして木の横に立つところなんざ、」ジョージは独り呟いた。「俺はまるで木を見るためだけに遠路はるばる赴いたジャングル人間のようではないか?」
ジョージが言っているのは私(ジャングルの本の手記者)のことではない。昔ジャングルにマスという川魚『フランツ・シューベルトの歌曲』の名前を持つ小説家がいて地元ジャングルのことをよく書いていた。彼は谷間に居を構えた林という女性作家(名前からして木がいっぱい生えていそうだ)のお宅に庭の木をしらべるためだけに訪れてもいるから大したものだ! マスはジャングル人間だったにちがいないと私も思う。マスは震災から逃れて帰郷の途についた一日、列車が動き出す前に鉄道線路から少し歩いた地点に原生林のごとき鬱蒼たる森(ジャングル)を発見して気分が高揚したことも記している。その森のなかにアンリ・ルソーもさすがによろこぶ虎やライオンの咆哮は聞こえただろうか? ──いや、聞こえなかっただろう。もしライオンがいたとしても家猫のようにおとなしく寝ていただろうと私は思う──なぜならマスはライオンのことをひと言も記していないからである。
ジャングルの住人だがジャングル人間ならざるジョージはプラタナスの木の傍らでやおらポケットから懐中時計をとり出して文字盤を睨み、わざとらしく顔をしかめた。「いかん、もう四時だ。『王』に会わなきゃな」ジョージは懐中時計の蓋を閉じるとまたポケットにしまい込み、山高帽子のつばをそっと持ち上げてプラタナスに別れの挨拶を送るのだった』
ジョージが紳士ぶっているのはなぜであろうか? 私はたまに彼について考えた。アロハシャツが南国のムードを醸すがゆえにジャングルを彷彿とさせるとするなら山高帽子や懐中時計はクラシカルな紳士のアイテムであってジャングルっぽくない装いだ。林野のジャングルを監督する営林署の官吏ならまだわかる。だがジョージは聖ゲオルギウスに由来するその名にふさわしく名の日の深夜に甚だ紳士的ならざる、紳士でなくなるところを持ちあわせていた。
彼はポケットに入れた時計が時間を知らせる用を弁ずるからこなごなに破壊するような無茶はしなかったが、ひとりになりガムでも噛みたいような手持ち無沙汰になるとコッソリと『危ない夢想』に耽るのだった。それは懐中時計をサルバドール・ダリの絵に描かれた時計のようにぐんにゃりと柔らかくしてしまうことだ……ひん曲がった短針と折れた長針、数字が位置を変えた文字盤がもはやこの機械機構が蘇生しないことを示している……懐中時計は電気椅子にかけて高圧電流を『こめかみに』受けて閃光とともにパンとはじけた。飴のようにぐんにゃりと溶けた時計(溶けるからトケーというのだろうか?)を想像するとジョージは紳士らしからぬあくどい愉悦が込み上げてきてどうしようもなく不気味な笑い顔になるのだった。まるで悪魔がジョージに取り憑いたようだ『ピエロに似た悪魔はカードの、トランプ遊びの札から飛び出して(山高)帽子から飛び出した死のようにニタニタと笑って立っているのでした』悪魔に取り憑かれたジョージは小一時間おとなしくしていればまたもとの紳士ぶった人物に戻る。この紳士と紳士でない男とを往還するところはジョージの正体が人狼や吸血鬼のごとき怪人物であることを物語っている。
だが私は言っておく。私は父の負債のカタに生家をジョージに奪い取られたから彼を恨んで悪しざまにあげつらっているのではない。私はジョージを恨んでいないし、実のところジャングルでは貸し借りは当たり前に横行しているのだ。ジャングルに住むだれもがだれかに貸しをつくり借りをつくる。ダマスカスまでの貸し借りだ。ダマスカス『騙しすかす』と思えば騙される。してやったりと思っているとしてやられている。だれもがだれかの奴隷になり主人にもなる。借りを返せばまたもと通り。ほんのいっとき辛抱して地下室につながれていればやがて解放のときが来る。私だけがそんな憂き目を免れる特権の持ち主のはずがない。私は父の家屋敷を手放した。それでジョージは私を放免して、私は物書小屋に引っ込んだ。以来私はジャングルの本を書くための筆耕機械だ。
◆ジャングルの『仮面の』王者
ジャングルの王者……私はその人のことを書くべきか書かざるべきか、書いても搔いても痛くも痒くもたまらない気持ちでペンを握りしめている。『王者』と呼ばれる男が少なくとも生まれたときからこのジャングルに王として君臨する運命にあり、先代が物故してから王位を継ぎ、朝な夕なにアサガオとユウガオにジョウロで水をやり、ジャングルの木の繁茂しすぎた枝葉を高枝切りバサミで伐り落とすハサミ男『シザーハンズ』ぶりを見せるかと思えば、盛夏(真夏の夜の夢)には町会の役員たちと盆踊りの出し物の相談をする律儀にして実務的な異能であることはジャングルに住むだれもが知っている。
だが王者は仮面の王者である。昆虫のようなバッタのような『直翅目さながらの』仮面をかぶり、ほぼ人前に素顔を晒したことがないのだ。このような覆面の人物が秘密結社のメンバーのごとき『素顔を知られてはいけない、知られたくない』心理のためにかあるいは『お国のために戦って顔面に「酷い」ケガをしたため』ふた目と見られぬ形相を人目から隠すためかのいずれかであると推測される。伝説の『笑い男』は顔の真ん中に万力で穿たれた恐ろしい洞穴が空いていて、見たものはみなキャット叫んで猫になる、いや気絶してしまうから芥子の花でできた仮面をかぶっているのだと物の本に書いてある『註。それは少年たちを野球場へ運ぶバスの運転手が少年たちが出て空になったバスの車内で書いた本である』けれども私が子供のときからひそかに秘めやかに恐れていたのは我らが王者がジャングルを征服すべく乗り込んだ『とある秘密結社の』一軍を、王ひとりで相手にしてあっという間に皆殺しにしてしまったという噂であった。
『……その秘密の軍団は人体に改造手術を施した邪悪な所業を平気でやり、戦闘員たちはみな長身痩躯の黒衣をまとった悪魔のような連中で常時「ヒイ!」という甲走った裏声を上げているのだった。我らが王者は迫りくる戦闘員たちを武器もなにも持たずに素手で一撃で殺していった。一発の拳固や足蹴りだけで改造された戦闘員を殺してしまえる強大な力……まるで『捕囚となり目を潰されたサムソンが神に願い再び自身に怪力がよみがえり千人の敵兵をたちまちのうちにやっつけた』逸話そっくりではないか……それが本当なら戦闘員を全滅させるとともにカタストロフが起こってしかるべきだが、不思議なことに仮面の王者は死を免れ、いまも仮面をかぶって王座にかけながら耳の孔をほじっているというのである。王はこのときの戦いを回想して「戦闘員のやつらのなかにはみずから殺されたがってるような感じがするやつがいた」と低く呟くのだった』私は子供のときこの噂を聞いて恐ろしくてたまらなくなった。深夜に真っ暗な廊下を歩いてトイレに行くのが怖くて『暗闇に影男がいる気がして』身がすくんだほどだ。だがいまの私はこの噂の真相を詮議しないことにする。噂の出どころつまり噂を広めた張本人はどうやらジョージ・トコロらしいと後年私はつきとめた。ジョージに触れるとややこしくなるからいまはやめておく。
いや、ところがどっこい、前段にプラタナスの木の横にいたジョージはいまはジャングルの王者に謁見すべく向かっている時空であるから、不本意ながらジョージにお出まし願おう。彼はアロハシャツに山高帽子のさっきと同じいでたちでジャングルの中心地にある王宮へとやってきたところ。ジャングルの中心地は木や草がさあっと分けてそこだけポッカリとなにも生えていない一帯で、王宮は見たところふつうの一軒家に見える。家屋が人間の顔のかたちをして眼や睫毛があり窓が鼻の穴に、ドアが口になっていたら思わずたじろぐが、そんなビックリハウスではないからジョージは二の足を踏むことなく王宮のベル『もしもわたしがベルならば』を鳴らすのだった。そのときジョージの足もとを一匹の爬虫類(カメともいう)がのろくさと通りかかり、見下ろすジョージは鼻唄を口ずさんだ。
ビッグ ビッグ ビッグ ビッグガメラ
ジョージの鼻唄は鼻から洩れいづる唄であるからして音韻は不鮮明で、濁音はより少ないかもしれなかった。ベルに呼ばれて玄関に姿を現したのは正装したポーランド人の侍従で、「いらっしゃいませ」と明瞭な日本語を発して来客を迎えた。「どちらさまですか……?」ジョージに誰何する侍従にジョージは内心『こいつは昨日雇われたモグリかな?』と地中のモグラ、もぐりっちょでないかと怪しみながら「トコロだよ。そう言えばわかる」と促した。侍従は一礼して歩き去り、ジョージは山高帽子を脱いで『王ときたら気まぐれだからな。思いつきですぐ侍従を増やす。上司は思いつきでものを言うとはよくいったもんだ』トランプの札を集めるみたいに召使いを増やしてどうするのか? と首をひねりながら『いまのやつみたいに新参のモグリにぞろぞろ出てこられるのは甚だたまらない話だな。モグラは、モングラーは土の下に隠れていて欲しいもんだ──』モングラーだかマングラーだかを思い浮かべるとじれったくてたまらなくなる。やがて先ほどのポーランド人侍従がまた現れて「どうぞお入りください」と入城許可を告げた。ジョージは聖ゲオルギウスの片鱗ともいうべき尊大にして悪辣な鼻息を吐くとのしのし歩き出した。
しかし王宮の廊下を進んだ先に潜水艦のハッチそっくりな円形の扉があり、丸いハンドルを回せばひらくかとジョージがハンドルを回したところがウンともスンともいわない。苛立つジョージにハッチの向こう側から耳馴れた声がした。「風の谷でナニしたマゾの宅急便がホウキがわりにひっつかんで股間に挟んで飛翔した道具はなにか?」──この妙な質問がスフィンクスの謎かけではなく合言葉なのはジャングルの王者が『山と言ったら川と言う』式の単純な符牒を王宮の風格にそぐわぬものとして好まざるがゆえであり、ジョージは言下に「デッキブラシ!」と答えた──ハッチはあいた。目の前に穴が広がり、ジョージは穴を跨いでくぐり抜けた。向こう側へ降り立つと王者による合言葉の講釈が待っていた。「御名答。いかにもデッキブラシである。彼女が股間に挟む道具がホウキにしろブラシにしろ掃き清める物なのは示唆的ではないかな? ジョージ、わしはこう思う、彼女は魔法によってホウキやブラシで彼女の股間を掃き清めている『ビデなんか真っ青の洗浄力だ!』なおかつ官能をおぼえてもいる、だから飛ぶんだ、飛行と性的興奮との関連を説くフロイドのお眼鏡にかなう一場じゃないかね?」潜水艦ハッチの向こう側には畳百畳敷きの悪趣味にだだっ広いお座敷が広がり、畳の上に椅子を置いて太っちょの王がかけていた。デブのせいかもともとの体質か多汗症の気味があるらしく短パンにアロハシャツを着て(このアロハは先年ジョージがプレゼントしたもの)短く刈り揃えた髪の毛の下に昆虫類の直翅目のバッタの仮面をかぶっていた。ジョージは屹立して「仰せの通りで。しかし閣下、潜水艦のハッチはくぐりにくいから、いい加減ちがうのに交換なさいませんか?」すると太っちょの王はフンと鼻を鳴らした。「上下にあるべきものを左右にしつらえることのコペルニクス的転回がきみにはわからんかね?」ジョージは肩をすぼめて首を振った。
「ところでジョージ。きみはジャングル月報の今月号を読んだかね?」王にきかれて、思いもよらない質問にジョージは不意を突かれながら「いいえ」と答えた。「今月号に『ジャングルブック』という記事を掲載しておる。そこにツタンカーメン王にまつわることが書いてある。わしはちょっとおもしろいから月報をとっといた」王はかけている椅子のクッションと自分のお尻の間にプレスされた冊子をとり出してジョージに渡した。ジョージは太っちょの王の汗の匂いが染みついていそうな紙を嫌なもののごとくに人差し指と拇指だけでつまんで恐る恐るひらいた。『ツタンカーメン王?』そんな人物がこのジャングルに関係するとは思われない。『ツタンカーメンも黄金の仮面をかぶっているけどな。だがそんなことをいったらマヤの盾の王だって翡翠の仮面をかぶっているし』
ページの端をつまみながらめくると記事が見つかった。
◆ツタンカーメンの思ひ出
『きみ知るやツタンカーメン。小学校の学び舎に通う年頃の私にはエジプトの往古のファラオ、ツタンカーメン王の黄金の仮面になぜ顎から伸びた斑の棒が付いているのか不思議だった。私はツタンカーメンの仮面の顎の下が気になって気になって奥歯に物が挟まったようになり、跳び箱も跳べなかったし五線譜の上にのたくるオタマジャクシにも気もそぞろだった。音楽教師が音符をオタマジャクシと形容するのを聞いてなぜ譜面のオタマジャクシに手足が生えないのかと訝しんだくらいのものだ。
私たちは楽器を習わされた。私は『ラアラア歌う』のが好きだったし『ラリラリ、ラリパッパ』とアマリリスを口ずさむのも好きだったが楽器は苦手だった。二番になると不気味な短調になり幾原邦彦調のシアトリカルアニメが眼前にくり広げられそうなあまりにアマリリスなしらべは歌うから好ましいのであって楽器『本来は「鈍器」であるべきものが脳内変換されて少年の手につかまれたマンドリンが凶行に及んだように』の音色がしらべをなぞるのは私の趣味ではない。だが学校というところは一人の児童が「趣味じゃない!」と叫んで主張しようがみんなと同じことを強制される場なのだ。私はハーモニカ(ハモニカ、ハモニカ長屋、マウスオルガン、口にくわえるオルガン)を吹きメロディカ(鍵盤ハーモニカ、ピアニカ)を吹きつつ指で弾き、それぞれ芳しからぬ成績を残した挙げ句にアホーダーを習わされた。アホーダー! 私と楽器との関わりはこの細い筒で縁切りとなったから私はいつもより親密な思いを込めて回想しよう。私はアホーダーで楽器演奏を『卒業』したおかげで鈍器と楽器をとりちがえてマンドリンの凶行に及ぶ懸念から解放された。アホーダーには感謝しなくてはならぬ。
ときにアホーダーという楽器は人がこれに息(アベル)を吹き込んで音を鳴らすのがきわめて簡易なものに属する。バイオリンとかトランペットは音を出すのが難しいそうだが私は触ったことがないから詳しくは知らぬ。ジャングル一の古老もそれ以上のことは知らないであろう。ところがアホーダーはちがう。子供にもたやすく奏せらるる楽器をとの配慮から採用されたのかもしれないが、息をそっと吹き込むだけでピーヒャラピーとアホが裏声でわめくような軽佻浮薄な音色が出る。この楽器製作者は容易に音が出るゆえをもって『お利口だあ!』と命名したのかもしれないが、私にはアホーダーがふさわしいと思える。このアホーダーを奏するのに私が熱中したかといえば、アホーダーの響きにはこれっぽっちも気が乗らなかったと白状せねばならぬ。私は(ジャングルのことなら)自白剤を飲まされなくても洗いざらいぶちまける覚悟ができている。私はこの『縦笛』と和訳せられた細長い楽器が前から気になっていたある物件に似ていることに授業中に気づいたのだ──それこそがツタンカーメン『の黄金の仮面『の顎から生えたまだらの棒』』である!
いまにして思えばあの顎の下の棒状の細工はファラオの立派なヒゲ(あごひげ)を表す部位かもしれない。私は生まれてからあのような形状のヒゲを生やした人間を見たことがないが、稀有だからして高貴な身分の頂点に君臨するに足る容姿だということなのであろうか。それはさておき、私はアホーダーの歌口を私の顎にピッタリとくっつけて隣の席の同級生に見せびらかしながら「ツタンカーメン!」と宣った。わが隣人は笑った。この愉快きわまる笑劇を持続させるべく、私はひきつづきアホーダーで遊ぶことにした。細長い棒に似た楽器を私の股間に生やし、おっ立てた状態にして「チンコカーメン!」と宣った。楽器の正体はツタンカーメンであり、チンコカーメンであったのだ。しかし音楽教師は笑劇を解さぬ朴念仁であった。私がアホーダーでふざけていると、教師はやおら私のシャツの襟をひっつかみ、力ずくで音楽室の外へ引きずり出した。私がアホーダーとともに廊下に追放されるとドアが閉まるピシャリという音が聞こえた。あとにはアホーダーとアホの私が残された』
「これだけですか?」ジョージは呆れ顔で言った。「これだけだね」王がうなずいた。「全然ジャングルに関連する逸話ではないと思うのですが?」ジョージがアロハの襟を魚類のヒレのように波打たせて不満足を示唆すると、「でもこのジャングルブックはまだまだつづくんだよ。これから彼の知識と経験を洗いざらい自供するつもりらしいな、このジャングル人間は」仮面の王者が述べたジャングル人間がこの私のことなのは言うまでもない。
「洗いざらい?」ジョージはこのとき初めて眉を怪しげに動かし、彼の眉毛は壁にうごめくトカゲのように見えた。
「うむ。こいつが知ってることならなんでもという意味さ」
王が言うとジョージは「ああ」と気がなさそうに相槌を打ち、しばらく沈黙した。この男は黙っているときになにがしかの良からぬことを思案しているのであった。
◆眠れるクロゼットの王女
寝室はどういうわけか四角くできている。タマラは部屋の壁に設置されたクロゼット『四角い寝室』のなかで眠っていた……夜の夢が、ジャングルの夜の夢が肩にとまった蝶のように彼女の仮面の後ろの脳内に降りて、育ちすぎたトウモロコシの葉が風に吹かれ引きつれながら苦しげに揺れるようにわけもなく左右に揺らめくのだった……『本当に私たちはよくトウモロコシを食べました。朝(あした)にケロッグコーンフレークを食べ、昼飯に焼きトウモロコシ『トウキビ(唐黍)とも』おやつにポップコーンをぐるぐる頬張って晩になるとコーンバターを肴に酒を飲むのでした。「トウモロコシがなければ私たちは生きていない、生きてゆかれない」それが私たちの合言葉でした。トウモロコシをすりこぎで潰して粉にするとお湯に溶いて練って饅頭をこしらえます、この饅頭がアフリカで広く食されている生命の源(泉)なのです。ゆえにトウモロコシは神様です』『盾の王の墓室にも、またジャングルの王の墓室にもトウモロコシ神の像は描かれている』タマラはトウモロコシとトウモロコシ神のことを考えるとたまらない気持ちになるのだった。
タマラがまだ幼いときに父親から命じられて昆虫類の直翅目のバッタの仮面をかぶりながら王宮の庭で遊ぶのに飽き、一階のトイレのすぐ隣にある『物置部屋だよ』と教えられていた扉の鍵があいているのを見つけた……たぶん父親が施錠するのを忘れたのだろう……扉をひらくと階段が現れた。タマラは思いもよらないものを見てこの階段を下ったところが物置部屋かもしれないと思った。暗闇は怖かったが好奇心がまさり、タマラは階段を恐る恐る降りていった……古いトウモロコシの匂いが下から漂ってきた『トウモロコシだ!』トウモロコシが行く手にあることがタマラをよろこばせた……階段が尽きたところは平坦になっていた。暗くてよく見えなかったがその空間の天井は鍾乳洞のようになっていて狂王ルートヴィヒが築いた城内のバロック風洞窟さながらの奇観を呈していたのである。タマラは暗闇のなかに石でできた棺桶を見つけた……棺桶のなかに吸血鬼が眠っているのかそれとも見てはいけないものがあるのかタマラは棺桶の蓋に手をかけてみた、だが幼いタマラの力では蓋はあかなかった『色おんな金と力はなかりけり』あかなくて幸いだった。棺桶の横の壁になにやら模様が描いてあった。夜目がきくタマラはその壁画の図をピーピング・トムがやらしいことをする男女を窃視するような興味を持って眺めた……タマラの期待に反して壁画は卑猥なものではなく、ミュシャのポスターを想わせる細かく描き込まれた絵でただしモデルはベル・エポックの名うての女優ではなくトウモロコシ神だった。
『トウモロコシ神はその神聖さにふさわしく大地の上にどっかりと胡座をかいて半裸になり、手にお箸を握っている。獲物をとらえた爬虫類(ヘビともいう)のように射抜く眼つきで睨みながら、トウモロコシ神がいままさにカップラーメンを食べるところなのは火を見るよりも明らかなのだ。獲物とちがってカップラーメンは逃げないが、気を抜くと時間が経ちすぎて麺が伸びてしまう憂き目を見る。トウモロコシ神は硬すぎず柔らかすぎずちょうどよい具合の麺が食べたいから一瞬一秒たりとも油断せずにカップラーメンから目を離さないのだった』
そしていつの日の記憶か、本当に見たものでなくタマラが夜の夢に見たのか、棺桶の蓋が遂にあけられてそのなかに直翅目のバッタの仮面をかぶった祖父の骸骨が現れたときの衝撃と、地下の墓室いっぱいに響き渡る悲鳴を上げてしまったこと……彼女の甲高い可聴音域ぎりぎりの超音波性の悲鳴を聞きつけた父親が地上から階段を降りてきて「だれだ、そこにいるのは!」と大音声で呼ばわり、これまた地下の鍾乳洞に反響してこだましたこと……『ヤッホー!』と我ら高らかに叫びぬ……絶体絶命のピンチから連続活劇のヒロインが導火線の火がみるみる縮まるダイナマイトを前にしていかにして『余は如何にして危機より逃れし乎?』逆転イッパツウーマンたり得たのか……『ああ、どうしよう?』少女のタマラは機転をきかせシューシューとガス管からガスが洩れいづるような声音をつくり暗闇のなかで壁際にうずくまり、懐中電灯を持った父親が階段を降りる前にその音の正体が彼が嫌う爬虫類(ヘビともいう)ではないかと本能的に直観せられ、まだらのひも、人の首に巻きついてガブッといくあの毒がある剣呑なやつが墓室に潜んでいることに怖気づいて、下った階段を再び戻りここまでのいきさつは『なかったことにして』扉の外へ逃げ出したのはもっけの幸運であった。
『「みなさん、ご紹介しましょう。タマラさんです」と先生が言いました』
タマラ、──タマラ・ド・レンピッカやタマラ・カルサヴィナとどことなく響き合うこのジャングルの王家の娘を私たち学校の生徒で知らぬものはなかった。彼女は父親と同じバッタの仮面をかぶり、教壇に立ち黒板にチョークでへたくそな字で「タマラ」と書くとこちらを向いて「授業はうわの空でよそ見をするとチョークが飛んできますよタマラです」と挨拶して頭を下げず胸を反らした。前列の生徒が慣習的にか王族への敬意を払ってのことかまばらな拍手をして連鎖的にクラスのみんなが遠慮がちな拍手をもって彼女を歓迎した。ところでタマラは転校ないし転入を『経験』したのではなかった、彼女は生粋のジャングル育ちで生まれつきジャングルに根を張った魚の目(鶏眼)のように根深い一族に属していた。ただ一年かそこら彼女は休学して母方の実家があるポーランドで過ごしていた。彼女がポーランドで学校に通っていたのか詳しいことは私は知り得ていない。日本に帰ってきた日に教師はこのやんごとなき姫の帰還を壮麗に祝福すべく黒板の上方に「タマラ姫堂々のご帰還!」と大書し、以前と変わらず仮面にて顔を覆い隠した彼女を教壇に登らしめたのである。
私は学生の頃からタマラが仮面を脱いだところを見たことがなかった。もしかしたらあの昆虫のバッタの仮面こそが彼女の本当の顔かもしれない。「彼女が仮面を脱ぐときは死ぬときなんだ」と私の同級生のジムは冗談めかして話したが、本当にそうなのかもしれなかった。『あの覆面の最凶プロレスラーがリングの上で無敵を貫きながら、戸外の道路を歩行中にトラックの運転手の前方不注意のために轢かれ、死をさとった彼が背広のポケットからタイガーかジャガーの覆面をとり出して川へ向かって最後の力をふりしぼり投擲して身罷られたように』タマラは彼女の生が終わろうとするときに仮面を脱ぎ捨てて彼女が仮面の主であったことじたいを隠そうとするのかもしれなかった。仮面を脱いで素顔を晒したタマラは王家の娘にあらずしてただの人間の女性なのだ……
寝室はどうにもこうにも四角くできている。シューシューというヘビの口から洩れいづる音で父親を退散せしめたものの、父親は地下の墓室にタマラがいたことを察知していた。仮面の王はタマラにかく語りき「タマラよ、お前はわしに借りをつくった。無断で地下の墓室へ侵入した罪はわしが免罪料を貸してやる。返済には一年かかる」王の奇妙な宣告は本来なら恩着せがましい申し出に類していたが、水溜まりに浮いた石油の七色の悪そうな怪しげな有無をいわさぬ光と輝きを放っていた。王はいちだんと声をひそめて『お前は一年のあいだクロゼットのなかを寝室にしなくてはならぬ』貸しを返しおおせるまで狭いクロゼットをねぐらにしてまるで猫型ロボットのように寝起きすることを強いられたタマラはしかし、案に相違してクロゼット『そこはサモトラケのニケを格納するには狭すぎましたが小便小僧の像をしまうにはやや広いのでした』の内部が気に入り、一年の返済期間をとうに過ぎて成人してもこの木の箱のなかで眠っているのだった。『まるで棺桶のなかだ』タマラは地下の墓で祖父の遺体が眠る棺桶に出くわしてから、自分はあっという間に棺桶のなかに入る、入っているだろうと予期するようになった『死は生と同じくわたくしの最愛の友であります』ねずみ色の外套を着た痩躯の中年男が冥府の使い(死神)であり、同時に齧歯目のネズミ妖怪(金銭の亡者)であることはそいつにレクイエムを依頼されたアマデウスならずともよく知っている。
◆ライオンは寝ている
「タマラ。夕飯だよ」父親の声がした。クロゼットのなかで昼寝していたタマラはめんどくさいめんどくさがりのナマケモノのミツユビのしぐさで寝室の観音びらきの扉をあけ、外に足を踏み出すとまた寝室が広がるマトリューシュカ現象を身にまといながら『夕飯』といわれても食べ物次第では食欲をまるでそそられないことにはたと気づいた。前にもこんなことがあったし、今後もあるだろう。
タマラ「お父様。夕飯のおかずはなんですの?」
王「なに? おかず?」
タマラ「そうです。わたし、おかず次第では夕飯を食べる気がしません。イシイのミートボールとかハンバーグとかファミチキにはいい加減食傷してますのよ」
王「このごろの若いもんは、色々とうるさいな。夕飯はトウモロコシ饅頭だよ」
タマラ「トウモロコシ饅頭はおかずじゃありません。主食です。いつも食べてるじゃない?」
王「なるほど、いわれてみれば台所のコーンミールの袋に主食用トウモロコシと書いてあるな」
タマラ「お父様、おかずはなんですか? お・か・ず」
王「おかずはね、鯛(魚類)の尾頭付きだよ。メデタイ、メデタイ」
あまりおめでたい気分にもならなかったがタマラは鯛の尾頭付きなら確かに高級感があり贅沢なご馳走のムードが『渚のアデリーヌのように』麗しく漂ってきたから『それなら食べよう』と決心した。ワクワク感が足もとから胃袋を通り抜けて頭のてっぺんに達した。タマラが食堂で席につくとポーランド人の給仕が大皿に銀の蓋をした料理を運んできた。給仕はタマラの耳元に「鯛の尾頭付きです」とささやいた。給仕自身の手によって銀の蓋がとりのけられると大皿の真ん中に冷めたたい焼き(小麦粉のお菓子)がのっていた。
バリーン、ガッシャーン! テーブルの上から大皿とその中身のたい焼きと銀の蓋が投げ飛ばされ、床に落ちて散乱しながら銀の蓋は半球体のボウルだからして上下逆さまに床に転がるとしばらく落ち着きなく回転していた『天体の回転について『我々の地球のまわりをお日様やお月様や星々が回っているのでなく実のところ我々の地球こそが回っているのは自明でありまして……』』タマラは身も世もなく泣き出すとからだをよじりながら父親を非難した。「お父様に騙された!」王はバッタの仮面姿でうろたえて椅子から立ったり座ったりした。どう弁解したらいいやら王には自己正当化し得る言い訳が思いつかなかったのである『……いえ、その、ヤバいことになる、なりそうなら引っ込めます。お日様とお月様は依然天空を回っておられます。わたくしは異端ではございません』床の上に落ちたたい焼きは本当に水から陸に釣り揚げられて命を喪った魚のように見えた。仮面の王は苦しまぎれにたい焼きの焦げたところを見下ろして「いやタマラ、たい焼きがオーブンのなかで焼けてたからな、せっかくだからお前にあげようと思って──」するとタマラは間髪入れずに「オーブンで焼くのはグラタンだよ! たい焼きは鉄板で焼くんだよ、この嘘つき!」王ののどからギャフンというような降参の吐息が洩れいづるのであった。
『たい焼きは……』涙を拭きながらもいまだ泣き泣きタマラはドリルを解いた。『お父様はときどきつまらない冗談を言いました。ある日わたしに「タマラ、庭をごらん。ホラ、モクレンが咲いているよ」と声をかけました。ですがわたしは問題集を解いていたので『問題』とにらめっこしてとても庭など眺める気になれなかったのです──第一、家の庭ならいつでも見られるじゃありませんか? ──いまここでお父様が死んでしまうのなら別ですが。わたしがお父様の呼びかけを無視しているとお父様が肩をすぼめて嘆息し「きみはモクレンに目もくれん」と言うのが聞こえました。わたしは癇癪を起こして机の上にあるものを全部床に払いのけると仮面をかぶったまま両手で顔を覆って泣きました。「なにがおもしろいのか、全然わからなかった!」お父様はオロオロしました。私には仮面の父がオロオロして太ったからだを意味なく左右に揺らしてジタバタするのがおかしくて、そのために泣いてみせたのです』
タマラは『ムズい問題集』をひらいた「ムズい問題集は難しそうでそれほど難しくないちょっとムズい『ムズムズ足症候群またはムカデ将軍になりたい人にうってつけの』参考書です。何問か解けばムズいのムズくないのびっくりするほど浪漫があって、きっとあなたもニッコリするでしょう」『にっこにっこにー』と呟きながらタマラは問題を解かずにページいちめんにたい焼きの絵を描いた。坊主が屏風に上手に描いた坊主の絵よりは下手だったが頭ならびに腹(尾頭付き)のドグマに憑かれた人よりはマシだった。『お父様は悪い本の読みすぎよ。一日一悪とか悪いことをする人の本を読むと頭のなかに『悪の華』が咲いちゃうのよ』
『カインは弟のアベル(息)を窒息させるか階段から突き落とすかして亡きものにしてから、毎日鼻の頭が痒くなり爪で引っ掻くのでした。まるで弟の亡霊が取り憑いてカインの鼻に痒くなるふりかけを振りかけたかのようでした……カインは神様に出頭を命じられる前にブドウ球菌に冒されてできた鼻の頭のおできにオロナイン『愚かなるカイン』軟膏を塗るのでした』
ジャングルの王は椅子の上で仮面の顔を眠そうにのけ反らせた。悪いことならいつでもいくらでも閃いた。善きこと、善行となるとからだを無理に曲げてよじっても浮かばなかった。自分の名前を善行か善男に改名しない限りできない相談なのだ……仮面の王は自分がまだ王でなかった『王子だった』ときを思い返して追憶に耽るのだった。
『父の命令でぼくらは毎朝エッグノッグを飲んだものだ。あの甘ったるい牛乳と卵の化合物を『父にエッグノッグを飲まされたのはぼくがよろこぶと思ってのことではなく、だれかがエッグノッグに毒を入れることを期してであった……』いきさつはどうだって構わない、ぼくのためにでなく叔母さんのために供せられたエッグノッグをぼくが間違えて飲んでしまったのだとか、トウモロコシ神の供物にするはずのそれを卑しいぼくが盗み飲んだのだとか……毒はさいわいにして混入していなかった。父はみずから毒を入れることは決してなかった『殺人の嫌疑をかけられることをあの父がやるものか!』だれか他人が、悪質なイタズラでもなにかの手ちがいでもよい、息子が飲むエッグノッグに毒を盛らないものかと待ちぼうけていたのだ『この世はトランプ遊びだ。札を引いて吉と出るか凶と出るか、フルハウスかそれともババを引くかの命がけの賭けだ』……それ以来ぼくはこの世界は純然たる悪意によってできているのだと確信している』
トウモロコシの神に捧ぐる供物にと
エッグノッグ少し 少しつくりぬ
いと少しを
『ジャングルの仮面の王『あるいは太ったバッタ』は本当に下らない話とはどういう話なのかを考える。少女を幾人か王宮に侍女としてはべらせて『彼女らにいやらしいことをする目的ではない』娘(タマラ)と大して変わらない年頃の侍女たちに王宮のなかだけでの通り名を付けてやる、桜花とか桃花とかスミレとか、そんなのを。ちょいと宝塚ふうだが悪いネーミングではない。でも桜花とか桃花とかスミレが鳩首して話している井戸端の談話がライオンの昼寝のことだったらこれはもう『侍女なんか雇うんじゃなかった!』レベルで下らない話だ。でも我らがジャングルに果たして百獣の王ライオンは棲息しているのであろうか? ──この千古の疑問に仮面の王も考え込まざるを得なかった。『真実』を究めようとする王のリチェルカーレ式の探索は彼の顔に『毛糸でできた』たてがみを生やし、全身に茶色の着ぐるみか獣の皮をまとい、ライオンらしく壮大なあくびをすると後肢で耳の裏側を掻く太っちょに似つかわしくない軽業を披露して『ホントにホントにホントにホントにライオンだ(ガオー!)』静かに唄を口ずさみ始めた。
ライオン・ソング (←ライオンの歌て意味だよ『そんなの知ってるよ!』)
ライオンは寝ている ジャングルの奥深く
たてがみは柔らかく ぺしゃんこにたたんで
ガオーと吼える日が また来ると思えないほど
スヤスヤグーグー 猫のようにまどろむ
ライオン(の姿をした王)は本物のライオンがこのジャングルのどこかにいるのか依然考えている。それは下らない話ではない。ライオンがいるのなら、いつか王のもとへやってきて王を喰い殺す『弑逆者となる』だろう。そして王権を簒奪して王宮の王座に鎮座ましますのだ。王は自分の首を咬みに来るライオンを夢見てうっとりする。甘噛みなんかするわけがない。鋭い牙に首の骨まで切断されて血がどっと噴き出す。ライオンの口は血に染まる。その夢を最初に見たのは父親に命じられてエッグノッグを飲まされていた頃だった。あれから何年経ったろう? ……ポーランド人の嫁との間に娘も生まれた。ライオンはもしかして娘のタマラを先に咬み殺すかもしれない。若い女の肉は柔らかくて美味しい。だが一向に現れないところを見ると、ライオンはきっと四六時中寝ているのだ、唄の通りに。王はライオンの姿でそう思う』
◆干し草の山
「この世は干し草の山だ。だれもが干し草をありったけ掴もうとしている」 ──フランドルの諺
ジャングルの前に建つ営林署のおじさんは夜中に部屋に入ると机に『パン・茶・宿直』を並べて「おっほん」と咳払いをするのでした。お茶を覗き込むと茶柱が立っていました。おじさんは「ふん、今日はツイてるようだわい」と呟きました。つづいてビニール袋に包まれたパンを食べようと袋をあけるときに、袋に印字された賞味期限が昨日なのに気づきました。
このとき、きみは怒り狂ってパンを袋ごとつかんで壁に投げつけるか? 『トモナガ博士によるとパンを壁に無限に近い回数投げつづければパンは宿直室の壁を通り抜ける』それとも「一日くらい構わない」と鷹揚に袋からパンをとり出して毒喰らわば皿までのゲテモノ喰いの本領を発揮するか? 私だったら後者だろう。なにしろ腹が減っているのだ。営林署のおじさんは木ばかりしらべてげっそりやつれているからなにか腹の足しになるものを食べないといけない。それにしても解せないのはお茶に茶柱が立っているのに賞味期限が切れたパンを手に入れたことだ──
私が物書部屋でここまでジャングルの本を書き継いだときに玄関のベルが鳴った。『もしもわたしがベルならば』私が立って小屋のドアをあけると、だれあろう、ハワイの人買いさながらのジョージが馴染みのアロハシャツ姿で立っていた。
「やあ」とジョージは挨拶して「なんで挨拶なんかするんだろうな? ありきたりでお座なりで月並みな言葉を発する人間の習慣は生活習慣病に類するときみは思わんかね?」
「性生活習慣病に類することではなさそうですね」と私は答えた。「ベッドのなかで『こんばんは!』なんて興ざめをぬかすやつはいませんから」
「確かに」ジョージは微笑を浮かべた。「ところできみはいまもジャングルの本を書いているのかね?」
私はうなずいた。するとジョージは「やめてもらいたい。すぐさまジャングルについてなにか書き記すことを一切やめるんだ」と強い口調で言った。弱々しい口調だったら逆に私はおどろき、疑心に駆られただろう。
「なぜです?」私がきくとジョージは「きみは告解室にもぐり込んだモグラ『モングラーだかマングラー』みたいに自分の経験と記憶を洗いざらい本に書くつもりだな? その記事にはわたしに関することが混じらないとも限らん。人によってはわたしが悪人であるかのように勘違いしかねない。わたしの名誉を傷つける行いは中止して欲しい」
『──どうせ、きみのことだから干し草と聞いて干し草の山にスマホを落として探す話でもすると思ったんだろう? どうしてそうベタな発想になるのかね? 星屑の屑になるよりは干し草の草になるほうがなんぼかマシだろう。ところで拳骨大のデカい隕石がジャングルに墜ちてきたときに、星屑の屑を拾ったのは『詩の一行で自分が人間の屑の屑でないことを証明したいと願った』シャルル・ボードレールではなくてイジドール・ボートルレだって知っているかね? あの少年探偵さ。墜ちた隕石は溶岩のように真っ赤に燃えて熱かったからイジドールはバケツに汲んだ水をくり返し隕石にかけて石を冷ました。明くる朝、石が冷えてからその地球外鉱物を猫車で家に運んだ。星屑なんか家に隠してどうするんだときみは思うだろうが、イジドールは星まで飛んでいた宇宙飛行士が宇宙船の事故か故障で宇宙空間に投げ出され、そのまま地球の引力に引っぱられて大気圏で燃えて流れ星になった故事をちゃんと知っていたのだ『この鉱物は燃え固まった飛行士の亡骸なのだ』猫車がもとは生きた猫だったように、ね』
朝。営林署のおじさんは薄暗い営林署のそばを散歩しながら夜警していた。でももう朝だから夜警は終わりだ。夜警の終盤の醍醐味は辺りが次第に明るくなるにつれて夜警より散歩の度合いが増していくことにあった。おじさんはこの時間が好きだった。この時間に目にするものは野良猫であれ泥棒であれ地面を這うゴキブリであれ好きだった。おじさんはそろそろ用無し(洋梨、西洋梨)になりかけた懐中電灯を持ちながら『おや?』営林署の前のジャングルのとば口に一人の若い女が倒れているのを見つけた。その女は顔面になにもかぶらずにストアで買った十秒チャージのゼリーを楽器のように『アホーダーのように』口にくわえたまま力尽きて草の上に横たわったように見えた。おじさんは十秒でエナジーをチャージできるゼリーをのどに入れておきながら力尽きたところを見ると『彼女は十秒経たないうちに倒れ、回復に間に合わなかったのだ』と解した。『残念無念また来年』おじさんがふと懐中電灯を倒れた女の数歩先に向けると地面に裏返った仮面が落ちているのを見つけた。『おお! これは……』おじさんが拾うとそれはまさしく昆虫の直翅目のバッタの仮面であった。
「思わぬ拾い物だなあ!」
おじさんは仮面をつかんで営林署へ帰ることにした。その背後でゼリーを口から離したタマラ(仮面の主)がムクリと起き上がって「ちょっと! わたしは? わたしを助けなさいよ!」と声高に呼ばわった。おじさんは振り向きもせずに営林署に入り、ドアをバタンと閉めた。閉めた勢いで営林署はブルンと震えた。
取調官「なぜジャングルの王女のタマラを助けずに仮面だけ営林署に持ち帰ったのかね?」
おじさん「タマラが仮面をかぶっているところしか見たことないですからな。倒れてる素顔の女は知らない人です」
取調官「それじゃ仕方がない」
おじさんが営林署に持ち帰ったバッタの仮面はどうなったのか? ──そりゃ、おじさんも一度は好奇心に負けてかぶってみたさ。だれも仮面の王になりすます欲求に打ち勝てやしない。でもおじさんは宿直室でパンの賞味期限が切れていなければ上機嫌で、もし一日かそこら切れていたとしても構わずに食べる奥ゆかしい性質だったから、仮面をかぶった姿を鏡に映してみて『なんだか自分らしくない』と感じてしまったんだ。いつもとちがうベッドで寝心地が悪いように『仮面の営林署のおじさん』は自分らしからぬ外見に居心地の悪さをおぼえて急いで脱ぎ捨てた。それで仮面にはすっかり関心を失った。何日かして私が営林署を訪れると、おじさんは「やあ」と言って「ジャングルの本は順風満帆に書けてるかね?」私はニコニコ『にっこにっこにー』しながら「万事快調ですよ」と答えた『だが事実をいえば必ずしもそうとは言えなかった』おじさんは私にお茶をいれてくれたが茶柱は立たなかった。私はその日靴を履いていたが、もし下駄を履いていたていたらきっと鼻緒が切れただろう。私がお茶を飲んでおじさんに礼を言って営林署を辞そうと思ったとき壁にかけてある仮面に目がとまった。「この仮面は?」私がおじさんにきくと「ああ、ジャングルのとば口で拾ったんだ。良かったらあげるよ」とサービス満点の返答をくれた。おじさんは上記のごとくこの仮面に関心を失っていたので、いまや仮面に一文の価値も見出していなかったのである。
かくて私は仮面をかぶって家路についた。
『国際仮面管理委員会より博物館に進言する。ツタンカーメン王の黄金仮面のあごひげがとれてしまったことはまことに遺憾である。本件につき当委員会は博物館員のずさんなる取扱いに厳重に抗議し、対応を検討する『ところで日本ジャングル地区のジョージ・トコロ委員によると仮面のあごひげの再接合には人工接着剤(アロンアルファ等)ではなく天然の接着成分である蜜蝋を使用するのが望ましいとの意見が提出せられている『古代人がアロンアルファなんか使うわけないでしょ。モチは餅屋だよ』参考にせられよ』とれてしまったのが鼻でなかったのはとにかくも不幸中の幸いである。あごひげに意外の重量があり、仮面を移動させる際に仮面本体から『つまりファラオ(王)というやつは仮面こそが本体で、肉体は付属品なんですな』脱落せらるる危険があったことは十分に予測されてしかるべきであった。あごひげは仮面本体とともに一体にかたどって鋳造された部品ではない、仮面本体とは別々に造ってあとからくっつけたものである。いわばあごひげは付けひげなのだ。ということは黄金仮面のあごひげはアホーダーのツタンカーメンないしチンコカーメンと同族に列せられるべき存在といえる』
私はジョージ・トコロが私の物書小屋を訪れてジャングルの本の執筆を中止するよう申し入れたときから不吉な予感がしていた。私とジョージは「きみがわたしのことを書いたら訴えてやる」「では、あなたがぼくにそう言ったことをジャングルの本に書きましょう」「なんだと?」と愉快きわまる談判をして結局決裂した。ジョージはプンスカ怒りながら物書小屋を出て行った。懐中時計を電気椅子にかけてぐんにゃりさせることを夢見るジョージが『鈍器と楽器を間違えて』凶行に及ぶ懸念はつとにあったことが私に予期できないわけではなかった。だがその心配に振り回されるよりも早く月日は流れ、ジャングルのカーニバルの日が来てしまった。
『ジャングルのカーニバルは古い伝統を持つジャングル地区の奇祭である。古い伝統を持つがヴェネツィアのカーニバルより古くはない。というのはジャングルのカーニバルはヴェネツィアのカーニバルを模した祭だからである。ただし模したのは街のみんなが仮面をかぶっているところだけで、ヴェネツィアのように仮面さえかぶっていればなにをしても『他人のパンを盗み食いしても痴漢をしても道路で寝ていても』許されるような特権は与えられていない。特権ゆえにヴェネツィアには世人をして「あいつ、毎日仮面かぶってらあ!」と言わしめる好人物が少なくないが、ジャングルのカーニバルでは仮面をかぶる以外のなんの権利も認められていないためにいわば純粋に仮面をかぶる楽しみを味わいたい人が仮面をかぶるために仮面をかぶるのである『隣の竹藪に竹立てかけたかったから竹立てかけたのである』カーニバルは素顔では参加できず、参加者は仮面をかぶった人だけである。
ジャングルのカーニバルは階段で行われる。なんでまたそんな疲れる場所で行われるのかと疑問に思われても古い伝統だから仕方がない。カーニバルの朝が来るとしぜんに心は浮き立ち、ものみなウキウキと仮面をかぶって階段にやってくる。階段のそこかしこに立ったりかけたり寄りかかりまた寝そべる仮面人物を目にするならば、この階段が見かけは怖いがとんだアルチンボルドだと首肯せらるるであろう』
ジャングルの仮面の王もまたいつもの仮面をかぶって太ったからだを左右に揺すりながら階段にやってきた。王の権限と責務ゆえに階段の最上段に否応なしに上がらされて腰かけていた。王は娘のタマラがいないかと階段を見渡した。すると下のほうの段に見馴れた仮面の人物がワンピースを着て座っていたので『あそこにいる』と王はホッとした。安心すると王はすぐに追憶に耽るのだった。
『だれもが階段にやってくる。この階段は干し草の山だからだ。みんな干し草をつかむために階段の段という段に群がるんだ。あの日のカーニバルも仮面をかぶった連中で階段はごった返していた。滑り止めのゴムをわけもなくじっと見つめるやつや手すりに陶然ともたれかかるやつもいた。仮面のせいで顔つきはわからないが、なかには薬物をやってるやつもいたにちがいない。親父は年老いていたが王だから最上段に鎮座ましましていた。ペスト医者の鳥の仮面『鳥人間』をかぶった給仕が一人一人に飲み物を配っていた。階段でミラノ風ドリアをがっついているやつもいた。ぼくはエッグノッグを渡されて飲んだ。親父もエッグノッグを飲んで、それからゆらりと立ち上がった……親父のエッグノッグに、薬かそれとも酒でも混入してたんじゃないかな? ……親父はひとつふたつ階段を下りたとたん、足を踏み外して階段を転落した。下の段にいた連中はぶつかったらたまらないから親父をよけた。親父は階段の下へまっしぐらに落ちていき死んだ。足腰が衰えていたんだ。もしかしたら自分から足を踏み外したのかもしれないが、いまとなってはわからない』
タマラの仮面と女物のワンピースを着用していたのはなにを隠そうこの私だった。なぜといって、私には営林署のおじさんにもらったタマラの仮面しかなく、タマラの仮面をかぶるならタマラのフリをするのが妥当と思われたからだ。単純素朴な思いつきで他意などない。ペスト医者『鳥人間』が階段にいる人たち一人一人にエッグノッグを配っていた。最上段にいる王にも下の段にいる私にも配られた。私は仮面越しにペスト医者の長く伸びたくちばしの仮面の後ろ側にある顔を覗いたが、みごとに遮蔽されていてだれだかわからなかった。私は渡されたエッグノッグを飲んだ。この甘ったるい牛乳と卵の化合物は私の好物ではなかったが、カーニバルに供された飲み物を飲まないのは道理に反する。飲んだとたん口のなかに甘味が広がり、次いで甘味のなかにほのかな苦味が『大人の舌を満足せしむるビターチョコレートのように』感じられた。それが温かい人情の底に潜む邪悪な意志であると気づく由なく、私は飲み込んだ。
しばらくして発作のように気分が高揚してきた。私はその場で立ち上がり、頭がくらめいて倒れた。階段から転落せずに済んだのは私のからだがその一段に接着剤のように貼りついていたからであろう。私の意識が遠のくなかでペスト医者が私に屈み込み、ささやく声が聞こえてきた。「おお、タマラ。きみじゃなかったんだよ。許してくれ。わたしは弑逆者になるつもりだったんだ。森の王をやっつけたフレイザーのように。オリバーなクロムウェル犬はゴッシュこの野郎だから好かない」『「ゴッシュは好かぬ。ゴッホも好かぬ」と善三郎は言ったとさ』私の耳にささやいたのはジョージ・トコロにほかならなかった。
『営林署のおじさんはジャングルの仮面の王が営林署にお出ましになったのでお茶を出しました。王はお茶を覗き込むと「ダメだ」と言下に言いました。「なぜです?」「茶柱が立っとらん。今日の勝負に勝つためになにがなんでも茶柱を立ててもらう」おじさんは二番煎じをいれるのは王に失礼だと思い茶葉を替えようとしましたが、王は「そのままでいい」と二番煎じをいれさせました。六番煎じか七番煎じか、完全に出がらしになってようやく茶柱が一本立ちました。
「よし!」王はおもむろにトランプ遊びの札をとり出すと営林署のおじさんに勝負を申し出ました。二人は宿直室の机に差し向かいになりセザンヌのカルタ遊びをする田紳の図よろしくポーカーを始めました──営林署のおじさんは数枚の札を引いたところであと一枚でフルハウスに届きそうになり、『しめしめ』とほくそ笑みました──すると王は一枚札を引くなり「よしきた!」と叫んで手持ちの札全部を机にぶちまけました。営林署のおじさんが見ると、ひらいたトランプ全てがあのピエロに似たジョーカーで、どの札にもニタニタと悪魔のような微笑を浮かべているのでした』
私はカーニバルの階段から『死体として』担架にのせられ運ばれた。運ばれた先は火葬場ではなくジャングルの王宮だった。一昼夜のあいだ私は昏睡していたらしい。目を覚ますと『私がカーニバルでかぶっていた』仮面をつけたタマラがいた。「やっと生き返った!」彼女は私を墓場から運び出されて蘇生させられたフランケンシュタインの怪物のように宣った。「死んでないよ」私は抗議した。「でも死にかけたよ。あんたは致死量に近いストリキニーネを飲んだのだから」私が意識を失う直前にジョージが言った言葉を私はさっき見た夢のごとくに反芻していた。彼は本当に王殺しを企てたのだろうか? 王はピンピンしていた。カーニバルからすたこらさっさと営林署の方角へ向かう姿が目撃されている。もしや、標的は初めから私(ジャングル人間)だったのではあるまいか? ──その思念が脳裡を風のように流れたとき、私は見るべきか見るべからざるものか、見てはいけないものをいきなり見てしまった。
タマラが私の前で仮面を脱いだ。
「あ、あ、あ……」私が絶句するとタマラは「なによ。わたしの素顔がおかしい?」
『ジョージは自分がエッグノッグにいれたストリキニーネが標的のジャングル人間に命中せずにこともあろうか王の娘のタマラが飲んでしまったことに深い懺悔の念を抱いて『かくなる上は死んでお詫び致そう』と薬物入りのエッグノッグを自らあおった。甘味のなかに苦味がほのかに混じる大人の舌にうってつけのビターチョコレートの味覚がすればジョージはきっと冥府の扉をねずみ色の外套を着た死神とともにアロハシャツを着てノックしていたにちがいない。だがのどに流し込んだエッグノッグはほんの少しシナモン(肉桂)の香りがした。そしてジョージの頭はお約束にくらめいてその場に倒れ、それからの時空は彼の知るところではなかった』
◆ジャングルブック
私は小屋に入ると物書部屋に入った。私の小屋と物書部屋はごく狭い『わしの管区は広くない。だが広いところより始末が悪いのさ』この狭いところでジャングルの本を書きつける私はジャングル人間で、次に書くべき出来事や事柄が決まっていないとき、私はきまってノートの白いページに目をやられ『紫煙が目にしみるように』そのまま傍らのベッドに崩れ落ちて横たわるのだった。『いま私が書くべきことはなんだろう?』もうそんなには、書くべきことは残っていない。
『目が覚めると俺は公園のベンチにいた。朝であることは明るさと空気感でわかった。その公園は都会の片隅にあるなんの変哲もないちっぽけな公園で、ベンチのほかには幼児が乗って遊ぶ揺れるイルカとペンギン、それに公衆トイレがあるばかりだった。俺はベンチから起き上がり、トイレで用を足すと再びベンチに戻って腰かけた。そのときになって初めて俺は自分がだれだかわからないことに気づいた。自分がなにものか、きれいさっぱり記憶がなかった。あるいは俺は公園のベンチで寝起きして公衆トイレで用を足すために生きているのかもしれない。そうだとしても不便はなかった。
俺が立ち上がって歩き出したのは公園に老人と子供から成る一団が侵入してきたためで、彼らは俺のベンチの横のベンチにラジカセを置くとにぎやかなピアノ伴奏に合わせて体操をおっ始めた。俺は静寂と自分だけの居場所を乱されて思わず嫌な顔をした。だが私が知らないだけで、彼らは毎朝ここに来て体操をする本来の権利者であり、俺のほうが不時の侵入者であったかもしれない。というよりまさにそうなのだ。俺は居場所を奪われて公園を出るとあてどもなく歩いた。
俺はこれからきっとヒモの男に風俗店で働かされていた女と知り合って所帯を持ち、アパート『ハーモニカ、ハモニカ長屋』をねぐらにするのだろう。俺の名前は思い出せないから女が俺に適当な名前を付けてくれるだろう。やがてひょんなことから机の引出しにしまい込まれた運転免許証を見つけ出し、俺はそれに書かれたジョージ・トコロという耳馴れない名前を知るだろう。そして占星術師の店へ探偵を依頼するとも占ってもらうともなく訪問し『全くこの世はだれもがだれかを訪問する世の中だ!』記憶を喪失する前のヤバい過去について示唆を受けるだろう。俺は過去を知るためでなく現在の自分の生活の安全を守るためにある行動に出るだろう。
そのような予想『預言』が走馬灯のごとくに俺の脳裡によぎったとき、俺は街はずれの殺風景なところに来ていた。そこに小さな小屋があった。むろん俺はこの場所もこの小屋も思い出せなかったが、眺めるうちになんとなく気持ちの良い人なつこい感じがしてきた。それで俺はベルを鳴らした『もしもわたしがベルならば』ややあって小屋のなかから男が出てきた。俺よりも若い、若く見える男だった。彼は俺を見るなり「ジョージ!」と言った。すると男の後ろから今度は女が出てきた。どちらも俺の知らない人たちだ。ところが女も俺を見るなり「ジョージ!」と口走った。こいつらは人を見ればジョージと口走る癖があるのかもしれない。「だれのことかね?」と俺は言った。二人の男女は顔を見合せて口をあんぐりあけると、口々に『あのとき間違えて』とか『忘れな草からとった忘れ薬を』とかわけのわからないことを言い出した。俺は彼らが俺の知らないことを詮議するのにだんだん苛立ち始め、ともかく小屋のなかに入れてくれと頼んだ。
ようやく小屋のなかに足を踏み入れたら室内にラジオがかかっていた。部屋は狭かった。男と女はベッドに座っていたので俺もそうした。「ジョージ、記憶をすっかり失くしちまったんだね」と男が言った。記憶がある二人に挟まれて俺一人記憶がないと、なんだか記憶を失ったこと、過去を失ったことが重大な災禍のような気がしてきた。ジョージ、ジョージと聖ゲオルギウスみたいな名前で呼ばれても俺にはさっぱり自分のことを思い出せない。そのことが残念無念また来年であり、恨めしく『うらめしや!』もあり、悲しくもなってきた。俺は頭を抱えながらどうにか記憶の糸を手繰ることができないものかと溺れるものは干し草をもつかむ思いで願ったとき、ラジオからラリパッパの口ずさむあまりにアマリリスなしらべが流れてきた。それを聞くや、俺は一条の光を見つけた気がして思わず立ち上がった。
「わかった!」俺は二人に叫んだ。「俺はこのアマリリスの曲が好きだったんだ!」
俺は思い出した、──俺がアマリリスの曲が好きな人間だったことを。──男と女は俺の記憶の回復をよろこび、狭い部屋のなかで『ともに祝わん』祝福してくれた』
ジャングルの仮面の王はカーニバルの階段の最上段でウトウトしている。この状況が剣呑『甚だ危機的』なことは次の唄がよく伝えている。
トイレでウトウトしていたら
泥棒さんに見つかって
急いで起きても もう遅い
とうとうナイフで殺された
唄を知ってか知らずか王はどこ吹く風のへっちゃらでウトウトしている。太っちょの王は人一倍太っている分だけよく眠る『眠りの森の王だ』憂愁もなく憧憬もなく学力のつけ入る隙もなく、ただひたすらライオンのように猫のように眠るばかりの王を訪ねて娘のタマラと私(ジャングル人間)が階段をのぼりかけたとき、王はようやく目を覚まして『ムニャムニャ』寝言のようにきざはしの下の娘に言う。「タマラ、トウモロコシ神にお供えは済ませたかね?」肝心の娘は隣の私とぺちゃくちゃお喋りするのに忙しくて父親の『思いつきでものを言う』質問はスルーする。そのことにではなく、このタイミングで目蓋をあけた王は眼下に小さく見えるタマラが仮面をかぶらずに素顔を晒している『彼女の素顔は母親譲りで美しいのだが』ことに気づき、憤慨のあまりに頭の頂点から活火山を噴火させる。「タマラ、なぜ仮面をかぶらない?」王は最上段にすっくと立ち、娘に宣告する──「お前はまたわしに『借り』を作った。この貸しは高くつくぞ!」──私とタマラは背負っているリュックサックからありったけのトウモロコシをとり出すと王をめがけて投げ始める。「やめろ、こら!」逃げ惑う王に逃げ道はない。なにしろ階段は階段しかなくて上がったら下りる以外にどこにも通じていないのだから……オヤ、王が防戦一方をやめてトウモロコシを拾い始めたぞ。どうやらこっちに投げ返す魂胆のようだ。ほーら、投げてきた! トウモロコシ合戦はここいらで停戦にしよう、私とタマラは階段を駆け下りて逃げる、逃げよう、──え、どこへ逃げるんだって? そりゃあ決まってる、トウモロコシのないところへさ。
完