Zenmai Domrai’s diary

小説・文芸その他についての好奇心の表明

ジャングルブック (創作)

  ─⁠─⁠おれはジャングルだ。おれの股間はジャングルで、おれのふるさとも夜の夢も頭のなかもジャングルだ (密林の書)

 

 

 

 

 私は小屋に入ると物書部屋に入った。部屋の机に向かい椅子にかけると机上のノートの白紙が目にしみたため、紫煙が目にしみるように目をつむって椅子のすぐ傍らにあるベッドに倒れるように横たわった。ああ、私はそのしぐさをいままで何百回くり返してきたことだろう! 私は机に向かってしばらくのあいだ自分にジャングルのことが書けるかどうか待つのだった。書けるかどうかは便通を待つのと一緒でごく自然に便意が催されるのを待てばいい。待てばいいしマテバシイ、ジャングルは私の大便のように出てくるのだ─⁠─⁠ところで私はこんなに汚い(尾籠な)話をするつもりではなかった─⁠─⁠私はきれいなジャングルの話をするつもりだった。きれいなきんたまの話をした男の子がいつの間にかクマのぬいぐるみに化けていた故事を耳にしてから、私は汚い話をするのを恐れている。

 だが今朝も私はジャングルのことが書けなかった。私は小一時間机に向かって頬杖をつきながらジャングルが私の腸(はらわた)をくぐり抜けるように脳内から蠕動とともに現れ出るのを待ち受けた。でもダメだった、今日も便秘だ、ああ、クソ! 鉄の便器に跨がって出ないウンコとにらめっこ。私にはジャングルのことを書きとめる使命があるというのに、出てくるのは麗しきジャングルにあらずして汚い話ばかりだ。ところで私はついこないだジャングルにあるレストランで隣の席の男子高校生たちが交わしていた愉快な冗談を思い出した。「お前、ウンコ?」と彼らは交互に口にした。

 

  もしもあなたがウンコなら

  わたしもきっとウンコです

 

『もしもわたしがベルならば……』というより清潔な歌を思い出す人はさいわいなるかな。あのベルの歌が学校のチャイムを想わせるピアノから開始されるように、ジャングル高等学校の男子生徒たちはチャイムとともに席を立ち、チャイムが鳴り終える前にまた席に戻ってくるだろう。便意とともにウンコが出るように天然自然なサイクルだ。私の机とベッドの往還もまた何万回となくくり返されるサイクルで、私は生きている限り数限りなくそれをくり返すだろう。ジャングルの本はすでに数巻に及んでいるが終わる見通しは立たない。私はきっと死ぬまでジャングルの本を書きつづけるだろう。毎日便器に跨がってウンコを出すように飽くことなくくり返されるのだ。『壁に向かってボールを「無限に近い回数」くり返しぶつけつづけるとボールは壁を通り抜けるというトモナガ博士の学説に従えば、私は無限に近い回数同じ暮らし方をくり返せばジャングルの向こう側へ脱出することになる』それは困る。くり返しが無限に近づく前に私は小休止して天に召されることにしよう。

 ところで私の物書部屋はお察しの通りごく狭い。お寺のお堂のなかのようなだだっ広い空間の片隅に机と椅子とベッドをくっつけて暮らしていたとしたらなんだかアンバランスでピカソが描いたイカルスの墜落のようだしブリューゲルが描いたイカルスの墜落のようでもある。私(イカルス)は大きな画布の一隅に海に墜ちて溺れている。そんな構図は私の好むところではないから私は机と椅子とベッドで室内がいっぱいになる狭い部屋にいるのだ。この物書部屋のなかで私は物書をするし寝てもいる。ここで食事をすることもあるが食べ物は大抵カップラーメンだ。私はカップめんを酷愛する男である。物書部屋でカップめんを食すときはベッドに腰かけている。立って食べることもある。しかし机に向かい椅子にかけることはしない。机と椅子はジャングルの本を書くための専用だからだ。物書部屋は読んで字のごとく物書を目的にした部屋で、私が寝たり食べたりするのは生活上やむを得ずにそうするのだ。この部屋の隣には台所がある。トイレがあり浴室がある。この小屋にあるのはそれだけだ。

 なにを隠そう、私は物書小屋を死んだ父から譲り受けた。私が父親から相続したのはこの小屋だけだ。父は建築家だった。この小屋で設計することもあったし図面を机に広げながらジオラマ用の小さな人形を図面に立てて遊ぶこともあった。晩年の父は建物とその外周を模したジオラマの庭の池に人形がはまって逆立ちして『イカルスのように溺れて』死んでいるところを工作して『金田一さん、事件です!』と題してコンペティションに出品した。結果はみごと落選したが、審査員の厚意で「ユーモア賞」というのを受賞した。ところで私は父がジオラマに題した金田一なる人物をよく知らないのだが、百日紅の木の下でサルが滑り落ちるところを目撃した探偵なのだろうか? 亡き父は食う寝るところに住むところを提供してクライアントからそれなりの報酬を得ていた。私が生まれ育った実家もジャングルのなかで甚だ個性的で魅力的な家だった。にもかかわらず私はそれらを相続せず、ただこの物書小屋だけを譲り受けた。父には家族に知られていない負債があった。父が死んだあとで私は返済に追われて家屋敷を手放したのである。

「悪いね」と債鬼、いや債権者のジョージはアロハシャツを着たハワイ島の人買いのごときいでたちで私に言った。「住むところを追い出すようで、わたしも心苦しい。でもわたしが義務からやむなくしているのを理解して欲しいね。わたしには若い人の住居を奪う趣味などないのだからな」

「ぼく、もうそんなに若くありません」私は肩をすぼめて言った。「それに物書小屋に住めるならそれで十分です」

 ジョージはニヤニヤ笑って私を眺めた。この男には影男のようなところが、影に隠れてトカゲのようにすばやく動く怪人物ふうなところが見受けられた。ジョージ・トコロというフルネームを聞けばだれでもなるほどそんなところがあるなと首肯せらるるはずだ。ジョージはむろん私よりだいぶ年上で、このジャングルに絡みつく植物の根のように先祖代々根づいた一族の末裔だった。私は父の代からジャングルに移住した新参者に属する。他所からのニューカマーである私はしかし生まれ育ったジャングルをだれよりも愛しているし、私より根深くジャングルにつなぎ留められたジョージよりも私の愛は深いにちがいない。私はジャングル人間だ。ジョージはアロハのいでたちからしてジャングル人間らしからぬところがある。

 私はジョージを影男だろうと推察し、私のジャングルの本に彼が歌うかもしれない影男の唄を書きとめた。

 

  暗い部屋にひとりきり わたしはまるで影男

  影を慕いて影をまとう わたしはきっと人トカゲ

 

 私がジョージのことを初めてジャングルの本に記したのは彼がジャングル人間の『フリ』をして自分をジャングル人間になぞらえたある日のくだりだった。

『『影男』ジョージ・トコロはアロハシャツを着て頭に山高帽子をかぶったミスマッチングな姿でジャングルのとば口に立ち、そこに生えた一本のプラタナス(すずかけの木)を惚れぼれと仰ぐのだった。ここいらに生えている木は本当のところこのプラタナス一本だけだった。山高帽子の上にプラタナスの扁平な葉がハラリと落ちるとジョージは帽子に降りかかったその葉を優雅な手つきで払いのけた。「こうして木の横に立つところなんざ、」ジョージは独り呟いた。「俺はまるで木を見るためだけに遠路はるばる赴いたジャングル人間のようではないか?」

 ジョージが言っているのは私(ジャングルの本の手記者)のことではない。昔ジャングルにマスという川魚『フランツ・シューベルトの歌曲』の名前を持つ小説家がいて地元ジャングルのことをよく書いていた。彼は谷間に居を構えた林という女性作家(名前からして木がいっぱい生えていそうだ)のお宅に庭の木をしらべるためだけに訪れてもいるから大したものだ! マスはジャングル人間だったにちがいないと私も思う。マスは震災から逃れて帰郷の途についた一日、列車が動き出す前に鉄道線路から少し歩いた地点に原生林のごとき鬱蒼たる森(ジャングル)を発見して気分が高揚したことも記している。その森のなかにアンリ・ルソーもさすがによろこぶ虎やライオンの咆哮は聞こえただろうか? ─⁠─⁠いや、聞こえなかっただろう。もしライオンがいたとしても家猫のようにおとなしく寝ていただろうと私は思う─⁠─⁠なぜならマスはライオンのことをひと言も記していないからである。

 ジャングルの住人だがジャングル人間ならざるジョージはプラタナスの木の傍らでやおらポケットから懐中時計をとり出して文字盤を睨み、わざとらしく顔をしかめた。「いかん、もう四時だ。『王』に会わなきゃな」ジョージは懐中時計の蓋を閉じるとまたポケットにしまい込み、山高帽子のつばをそっと持ち上げてプラタナスに別れの挨拶を送るのだった』

 ジョージが紳士ぶっているのはなぜであろうか? 私はたまに彼について考えた。アロハシャツが南国のムードを醸すがゆえにジャングルを彷彿とさせるとするなら山高帽子や懐中時計はクラシカルな紳士のアイテムであってジャングルっぽくない装いだ。林野のジャングルを監督する営林署の官吏ならまだわかる。だがジョージは聖ゲオルギウスに由来するその名にふさわしく名の日の深夜に甚だ紳士的ならざる、紳士でなくなるところを持ちあわせていた。

 彼はポケットに入れた時計が時間を知らせる用を弁ずるからこなごなに破壊するような無茶はしなかったが、ひとりになりガムでも噛みたいような手持ち無沙汰になるとコッソリと『危ない夢想』に耽るのだった。それは懐中時計をサルバドール・ダリの絵に描かれた時計のようにぐんにゃりと柔らかくしてしまうことだ……ひん曲がった短針と折れた長針、数字が位置を変えた文字盤がもはやこの機械機構が蘇生しないことを示している……懐中時計は電気椅子にかけて高圧電流を『こめかみに』受けて閃光とともにパンとはじけた。飴のようにぐんにゃりと溶けた時計(溶けるからトケーというのだろうか?)を想像するとジョージは紳士らしからぬあくどい愉悦が込み上げてきてどうしようもなく不気味な笑い顔になるのだった。まるで悪魔がジョージに取り憑いたようだ『ピエロに似た悪魔はカードの、トランプ遊びの札から飛び出して(山高)帽子から飛び出した死のようにニタニタと笑って立っているのでした』悪魔に取り憑かれたジョージは小一時間おとなしくしていればまたもとの紳士ぶった人物に戻る。この紳士と紳士でない男とを往還するところはジョージの正体が人狼や吸血鬼のごとき怪人物であることを物語っている。

 だが私は言っておく。私は父の負債のカタに生家をジョージに奪い取られたから彼を恨んで悪しざまにあげつらっているのではない。私はジョージを恨んでいないし、実のところジャングルでは貸し借りは当たり前に横行しているのだ。ジャングルに住むだれもがだれかに貸しをつくり借りをつくる。ダマスカスまでの貸し借りだ。ダマスカス『騙しすかす』と思えば騙される。してやったりと思っているとしてやられている。だれもがだれかの奴隷になり主人にもなる。借りを返せばまたもと通り。ほんのいっとき辛抱して地下室につながれていればやがて解放のときが来る。私だけがそんな憂き目を免れる特権の持ち主のはずがない。私は父の家屋敷を手放した。それでジョージは私を放免して、私は物書小屋に引っ込んだ。以来私はジャングルの本を書くための筆耕機械だ。

 

◆ジャングルの『仮面の』王者

 

 ジャングルの王者……私はその人のことを書くべきか書かざるべきか、書いても搔いても痛くも痒くもたまらない気持ちでペンを握りしめている。『王者』と呼ばれる男が少なくとも生まれたときからこのジャングルに王として君臨する運命にあり、先代が物故してから王位を継ぎ、朝な夕なにアサガオとユウガオにジョウロで水をやり、ジャングルの木の繁茂しすぎた枝葉を高枝切りバサミで伐り落とすハサミ男『シザーハンズ』ぶりを見せるかと思えば、盛夏(真夏の夜の夢)には町会の役員たちと盆踊りの出し物の相談をする律儀にして実務的な異能であることはジャングルに住むだれもが知っている。

 だが王者は仮面の王者である。昆虫のようなバッタのような『直翅目さながらの』仮面をかぶり、ほぼ人前に素顔を晒したことがないのだ。このような覆面の人物が秘密結社のメンバーのごとき『素顔を知られてはいけない、知られたくない』心理のためにかあるいは『お国のために戦って顔面に「酷い」ケガをしたため』ふた目と見られぬ形相を人目から隠すためかのいずれかであると推測される。伝説の『笑い男』は顔の真ん中に万力で穿たれた恐ろしい洞穴が空いていて、見たものはみなキャット叫んで猫になる、いや気絶してしまうから芥子の花でできた仮面をかぶっているのだと物の本に書いてある『註。それは少年たちを野球場へ運ぶバスの運転手が少年たちが出て空になったバスの車内で書いた本である』けれども私が子供のときからひそかに秘めやかに恐れていたのは我らが王者がジャングルを征服すべく乗り込んだ『とある秘密結社の』一軍を、王ひとりで相手にしてあっという間に皆殺しにしてしまったという噂であった。

『……その秘密の軍団は人体に改造手術を施した邪悪な所業を平気でやり、戦闘員たちはみな長身痩躯の黒衣をまとった悪魔のような連中で常時「ヒイ!」という甲走った裏声を上げているのだった。我らが王者は迫りくる戦闘員たちを武器もなにも持たずに素手で一撃で殺していった。一発の拳固や足蹴りだけで改造された戦闘員を殺してしまえる強大な力……まるで『捕囚となり目を潰されたサムソンが神に願い再び自身に怪力がよみがえり千人の敵兵をたちまちのうちにやっつけた』逸話そっくりではないか……それが本当なら戦闘員を全滅させるとともにカタストロフが起こってしかるべきだが、不思議なことに仮面の王者は死を免れ、いまも仮面をかぶって王座にかけながら耳の孔をほじっているというのである。王はこのときの戦いを回想して「戦闘員のやつらのなかにはみずから殺されたがってるような感じがするやつがいた」と低く呟くのだった』私は子供のときこの噂を聞いて恐ろしくてたまらなくなった。深夜に真っ暗な廊下を歩いてトイレに行くのが怖くて『暗闇に影男がいる気がして』身がすくんだほどだ。だがいまの私はこの噂の真相を詮議しないことにする。噂の出どころつまり噂を広めた張本人はどうやらジョージ・トコロらしいと後年私はつきとめた。ジョージに触れるとややこしくなるからいまはやめておく。

 いや、ところがどっこい、前段にプラタナスの木の横にいたジョージはいまはジャングルの王者に謁見すべく向かっている時空であるから、不本意ながらジョージにお出まし願おう。彼はアロハシャツに山高帽子のさっきと同じいでたちでジャングルの中心地にある王宮へとやってきたところ。ジャングルの中心地は木や草がさあっと分けてそこだけポッカリとなにも生えていない一帯で、王宮は見たところふつうの一軒家に見える。家屋が人間の顔のかたちをして眼や睫毛があり窓が鼻の穴に、ドアが口になっていたら思わずたじろぐが、そんなビックリハウスではないからジョージは二の足を踏むことなく王宮のベル『もしもわたしがベルならば』を鳴らすのだった。そのときジョージの足もとを一匹の爬虫類(カメともいう)がのろくさと通りかかり、見下ろすジョージは鼻唄を口ずさんだ。

 

  ビッグ ビッグ ビッグ ビッグガメラ

 

 ジョージの鼻唄は鼻から洩れいづる唄であるからして音韻は不鮮明で、濁音はより少ないかもしれなかった。ベルに呼ばれて玄関に姿を現したのは正装したポーランド人の侍従で、「いらっしゃいませ」と明瞭な日本語を発して来客を迎えた。「どちらさまですか……?」ジョージに誰何する侍従にジョージは内心『こいつは昨日雇われたモグリかな?』と地中のモグラ、もぐりっちょでないかと怪しみながら「トコロだよ。そう言えばわかる」と促した。侍従は一礼して歩き去り、ジョージは山高帽子を脱いで『王ときたら気まぐれだからな。思いつきですぐ侍従を増やす。上司は思いつきでものを言うとはよくいったもんだ』トランプの札を集めるみたいに召使いを増やしてどうするのか? と首をひねりながら『いまのやつみたいに新参のモグリにぞろぞろ出てこられるのは甚だたまらない話だな。モグラは、モングラーは土の下に隠れていて欲しいもんだ─⁠─⁠』モングラーだかマングラーだかを思い浮かべるとじれったくてたまらなくなる。やがて先ほどのポーランド人侍従がまた現れて「どうぞお入りください」と入城許可を告げた。ジョージは聖ゲオルギウスの片鱗ともいうべき尊大にして悪辣な鼻息を吐くとのしのし歩き出した。

 しかし王宮の廊下を進んだ先に潜水艦のハッチそっくりな円形の扉があり、丸いハンドルを回せばひらくかとジョージがハンドルを回したところがウンともスンともいわない。苛立つジョージにハッチの向こう側から耳馴れた声がした。「風の谷でナニしたマゾの宅急便がホウキがわりにひっつかんで股間に挟んで飛翔した道具はなにか?」─⁠─⁠この妙な質問がスフィンクスの謎かけではなく合言葉なのはジャングルの王者が『山と言ったら川と言う』式の単純な符牒を王宮の風格にそぐわぬものとして好まざるがゆえであり、ジョージは言下に「デッキブラシ!」と答えた─⁠─⁠ハッチはあいた。目の前に穴が広がり、ジョージは穴を跨いでくぐり抜けた。向こう側へ降り立つと王者による合言葉の講釈が待っていた。「御名答。いかにもデッキブラシである。彼女が股間に挟む道具がホウキにしろブラシにしろ掃き清める物なのは示唆的ではないかな? ジョージ、わしはこう思う、彼女は魔法によってホウキやブラシで彼女の股間を掃き清めている『ビデなんか真っ青の洗浄力だ!』なおかつ官能をおぼえてもいる、だから飛ぶんだ、飛行と性的興奮との関連を説くフロイドのお眼鏡にかなう一場じゃないかね?」潜水艦ハッチの向こう側には畳百畳敷きの悪趣味にだだっ広いお座敷が広がり、畳の上に椅子を置いて太っちょの王がかけていた。デブのせいかもともとの体質か多汗症の気味があるらしく短パンにアロハシャツを着て(このアロハは先年ジョージがプレゼントしたもの)短く刈り揃えた髪の毛の下に昆虫類の直翅目のバッタの仮面をかぶっていた。ジョージは屹立して「仰せの通りで。しかし閣下、潜水艦のハッチはくぐりにくいから、いい加減ちがうのに交換なさいませんか?」すると太っちょの王はフンと鼻を鳴らした。「上下にあるべきものを左右にしつらえることのコペルニクス的転回がきみにはわからんかね?」ジョージは肩をすぼめて首を振った。

「ところでジョージ。きみはジャングル月報の今月号を読んだかね?」王にきかれて、思いもよらない質問にジョージは不意を突かれながら「いいえ」と答えた。「今月号に『ジャングルブック』という記事を掲載しておる。そこにツタンカーメン王にまつわることが書いてある。わしはちょっとおもしろいから月報をとっといた」王はかけている椅子のクッションと自分のお尻の間にプレスされた冊子をとり出してジョージに渡した。ジョージは太っちょの王の汗の匂いが染みついていそうな紙を嫌なもののごとくに人差し指と拇指だけでつまんで恐る恐るひらいた。『ツタンカーメン王?』そんな人物がこのジャングルに関係するとは思われない。『ツタンカーメンも黄金の仮面をかぶっているけどな。だがそんなことをいったらマヤの盾の王だって翡翠の仮面をかぶっているし』

 ページの端をつまみながらめくると記事が見つかった。

 

◆ツタンカーメンの思ひ出

 

『きみ知るやツタンカーメン。小学校の学び舎に通う年頃の私にはエジプトの往古のファラオ、ツタンカーメン王の黄金の仮面になぜ顎から伸びた斑の棒が付いているのか不思議だった。私はツタンカーメンの仮面の顎の下が気になって気になって奥歯に物が挟まったようになり、跳び箱も跳べなかったし五線譜の上にのたくるオタマジャクシにも気もそぞろだった。音楽教師が音符をオタマジャクシと形容するのを聞いてなぜ譜面のオタマジャクシに手足が生えないのかと訝しんだくらいのものだ。

 私たちは楽器を習わされた。私は『ラアラア歌う』のが好きだったし『ラリラリ、ラリパッパ』とアマリリスを口ずさむのも好きだったが楽器は苦手だった。二番になると不気味な短調になり幾原邦彦調のシアトリカルアニメが眼前にくり広げられそうなあまりにアマリリスなしらべは歌うから好ましいのであって楽器『本来は「鈍器」であるべきものが脳内変換されて少年の手につかまれたマンドリンが凶行に及んだように』の音色がしらべをなぞるのは私の趣味ではない。だが学校というところは一人の児童が「趣味じゃない!」と叫んで主張しようがみんなと同じことを強制される場なのだ。私はハーモニカ(ハモニカ、ハモニカ長屋、マウスオルガン、口にくわえるオルガン)を吹きメロディカ(鍵盤ハーモニカ、ピアニカ)を吹きつつ指で弾き、それぞれ芳しからぬ成績を残した挙げ句にアホーダーを習わされた。アホーダー! 私と楽器との関わりはこの細い筒で縁切りとなったから私はいつもより親密な思いを込めて回想しよう。私はアホーダーで楽器演奏を『卒業』したおかげで鈍器と楽器をとりちがえてマンドリンの凶行に及ぶ懸念から解放された。アホーダーには感謝しなくてはならぬ。

 ときにアホーダーという楽器は人がこれに息(アベル)を吹き込んで音を鳴らすのがきわめて簡易なものに属する。バイオリンとかトランペットは音を出すのが難しいそうだが私は触ったことがないから詳しくは知らぬ。ジャングル一の古老もそれ以上のことは知らないであろう。ところがアホーダーはちがう。子供にもたやすく奏せらるる楽器をとの配慮から採用されたのかもしれないが、息をそっと吹き込むだけでピーヒャラピーとアホが裏声でわめくような軽佻浮薄な音色が出る。この楽器製作者は容易に音が出るゆえをもって『お利口だあ!』と命名したのかもしれないが、私にはアホーダーがふさわしいと思える。このアホーダーを奏するのに私が熱中したかといえば、アホーダーの響きにはこれっぽっちも気が乗らなかったと白状せねばならぬ。私は(ジャングルのことなら)自白剤を飲まされなくても洗いざらいぶちまける覚悟ができている。私はこの『縦笛』と和訳せられた細長い楽器が前から気になっていたある物件に似ていることに授業中に気づいたのだ─⁠─⁠それこそがツタンカーメン『の黄金の仮面『の顎から生えたまだらの棒』』である!

 いまにして思えばあの顎の下の棒状の細工はファラオの立派なヒゲ(あごひげ)を表す部位かもしれない。私は生まれてからあのような形状のヒゲを生やした人間を見たことがないが、稀有だからして高貴な身分の頂点に君臨するに足る容姿だということなのであろうか。それはさておき、私はアホーダーの歌口を私の顎にピッタリとくっつけて隣の席の同級生に見せびらかしながら「ツタンカーメン!」と宣った。わが隣人は笑った。この愉快きわまる笑劇を持続させるべく、私はひきつづきアホーダーで遊ぶことにした。細長い棒に似た楽器を私の股間に生やし、おっ立てた状態にして「チンコカーメン!」と宣った。楽器の正体はツタンカーメンであり、チンコカーメンであったのだ。しかし音楽教師は笑劇を解さぬ朴念仁であった。私がアホーダーでふざけていると、教師はやおら私のシャツの襟をひっつかみ、力ずくで音楽室の外へ引きずり出した。私がアホーダーとともに廊下に追放されるとドアが閉まるピシャリという音が聞こえた。あとにはアホーダーとアホの私が残された』

「これだけですか?」ジョージは呆れ顔で言った。「これだけだね」王がうなずいた。「全然ジャングルに関連する逸話ではないと思うのですが?」ジョージがアロハの襟を魚類のヒレのように波打たせて不満足を示唆すると、「でもこのジャングルブックはまだまだつづくんだよ。これから彼の知識と経験を洗いざらい自供するつもりらしいな、このジャングル人間は」仮面の王者が述べたジャングル人間がこの私のことなのは言うまでもない。

「洗いざらい?」ジョージはこのとき初めて眉を怪しげに動かし、彼の眉毛は壁にうごめくトカゲのように見えた。

「うむ。こいつが知ってることならなんでもという意味さ」

 王が言うとジョージは「ああ」と気がなさそうに相槌を打ち、しばらく沈黙した。この男は黙っているときになにがしかの良からぬことを思案しているのであった。

 

◆眠れるクロゼットの王女

 

 寝室はどういうわけか四角くできている。タマラは部屋の壁に設置されたクロゼット『四角い寝室』のなかで眠っていた……夜の夢が、ジャングルの夜の夢が肩にとまった蝶のように彼女の仮面の後ろの脳内に降りて、育ちすぎたトウモロコシの葉が風に吹かれ引きつれながら苦しげに揺れるようにわけもなく左右に揺らめくのだった……『本当に私たちはよくトウモロコシを食べました。朝(あした)にケロッグコーンフレークを食べ、昼飯に焼きトウモロコシ『トウキビ(唐黍)とも』おやつにポップコーンをぐるぐる頬張って晩になるとコーンバターを肴に酒を飲むのでした。「トウモロコシがなければ私たちは生きていない、生きてゆかれない」それが私たちの合言葉でした。トウモロコシをすりこぎで潰して粉にするとお湯に溶いて練って饅頭をこしらえます、この饅頭がアフリカで広く食されている生命の源(泉)なのです。ゆえにトウモロコシは神様です』『盾の王の墓室にも、またジャングルの王の墓室にもトウモロコシ神の像は描かれている』タマラはトウモロコシとトウモロコシ神のことを考えるとたまらない気持ちになるのだった。

 タマラがまだ幼いときに父親から命じられて昆虫類の直翅目のバッタの仮面をかぶりながら王宮の庭で遊ぶのに飽き、一階のトイレのすぐ隣にある『物置部屋だよ』と教えられていた扉の鍵があいているのを見つけた……たぶん父親が施錠するのを忘れたのだろう……扉をひらくと階段が現れた。タマラは思いもよらないものを見てこの階段を下ったところが物置部屋かもしれないと思った。暗闇は怖かったが好奇心がまさり、タマラは階段を恐る恐る降りていった……古いトウモロコシの匂いが下から漂ってきた『トウモロコシだ!』トウモロコシが行く手にあることがタマラをよろこばせた……階段が尽きたところは平坦になっていた。暗くてよく見えなかったがその空間の天井は鍾乳洞のようになっていて狂王ルートヴィヒが築いた城内のバロック風洞窟さながらの奇観を呈していたのである。タマラは暗闇のなかに石でできた棺桶を見つけた……棺桶のなかに吸血鬼が眠っているのかそれとも見てはいけないものがあるのかタマラは棺桶の蓋に手をかけてみた、だが幼いタマラの力では蓋はあかなかった『色おんな金と力はなかりけり』あかなくて幸いだった。棺桶の横の壁になにやら模様が描いてあった。夜目がきくタマラはその壁画の図をピーピング・トムがやらしいことをする男女を窃視するような興味を持って眺めた……タマラの期待に反して壁画は卑猥なものではなく、ミュシャのポスターを想わせる細かく描き込まれた絵でただしモデルはベル・エポックの名うての女優ではなくトウモロコシ神だった。

『トウモロコシ神はその神聖さにふさわしく大地の上にどっかりと胡座をかいて半裸になり、手にお箸を握っている。獲物をとらえた爬虫類(ヘビともいう)のように射抜く眼つきで睨みながら、トウモロコシ神がいままさにカップラーメンを食べるところなのは火を見るよりも明らかなのだ。獲物とちがってカップラーメンは逃げないが、気を抜くと時間が経ちすぎて麺が伸びてしまう憂き目を見る。トウモロコシ神は硬すぎず柔らかすぎずちょうどよい具合の麺が食べたいから一瞬一秒たりとも油断せずにカップラーメンから目を離さないのだった』

 そしていつの日の記憶か、本当に見たものでなくタマラが夜の夢に見たのか、棺桶の蓋が遂にあけられてそのなかに直翅目のバッタの仮面をかぶった祖父の骸骨が現れたときの衝撃と、地下の墓室いっぱいに響き渡る悲鳴を上げてしまったこと……彼女の甲高い可聴音域ぎりぎりの超音波性の悲鳴を聞きつけた父親が地上から階段を降りてきて「だれだ、そこにいるのは!」と大音声で呼ばわり、これまた地下の鍾乳洞に反響してこだましたこと……『ヤッホー!』と我ら高らかに叫びぬ……絶体絶命のピンチから連続活劇のヒロインが導火線の火がみるみる縮まるダイナマイトを前にしていかにして『余は如何にして危機より逃れし乎?』逆転イッパツウーマンたり得たのか……『ああ、どうしよう?』少女のタマラは機転をきかせシューシューとガス管からガスが洩れいづるような声音をつくり暗闇のなかで壁際にうずくまり、懐中電灯を持った父親が階段を降りる前にその音の正体が彼が嫌う爬虫類(ヘビともいう)ではないかと本能的に直観せられ、まだらのひも、人の首に巻きついてガブッといくあの毒がある剣呑なやつが墓室に潜んでいることに怖気づいて、下った階段を再び戻りここまでのいきさつは『なかったことにして』扉の外へ逃げ出したのはもっけの幸運であった。

『「みなさん、ご紹介しましょう。タマラさんです」と先生が言いました』

 タマラ、─⁠─⁠タマラ・ド・レンピッカやタマラ・カルサヴィナとどことなく響き合うこのジャングルの王家の娘を私たち学校の生徒で知らぬものはなかった。彼女は父親と同じバッタの仮面をかぶり、教壇に立ち黒板にチョークでへたくそな字で「タマラ」と書くとこちらを向いて「授業はうわの空でよそ見をするとチョークが飛んできますよタマラです」と挨拶して頭を下げず胸を反らした。前列の生徒が慣習的にか王族への敬意を払ってのことかまばらな拍手をして連鎖的にクラスのみんなが遠慮がちな拍手をもって彼女を歓迎した。ところでタマラは転校ないし転入を『経験』したのではなかった、彼女は生粋のジャングル育ちで生まれつきジャングルに根を張った魚の目(鶏眼)のように根深い一族に属していた。ただ一年かそこら彼女は休学して母方の実家があるポーランドで過ごしていた。彼女がポーランドで学校に通っていたのか詳しいことは私は知り得ていない。日本に帰ってきた日に教師はこのやんごとなき姫の帰還を壮麗に祝福すべく黒板の上方に「タマラ姫堂々のご帰還!」と大書し、以前と変わらず仮面にて顔を覆い隠した彼女を教壇に登らしめたのである。

 私は学生の頃からタマラが仮面を脱いだところを見たことがなかった。もしかしたらあの昆虫のバッタの仮面こそが彼女の本当の顔かもしれない。「彼女が仮面を脱ぐときは死ぬときなんだ」と私の同級生のジムは冗談めかして話したが、本当にそうなのかもしれなかった。『あの覆面の最凶プロレスラーがリングの上で無敵を貫きながら、戸外の道路を歩行中にトラックの運転手の前方不注意のために轢かれ、死をさとった彼が背広のポケットからタイガーかジャガーの覆面をとり出して川へ向かって最後の力をふりしぼり投擲して身罷られたように』タマラは彼女の生が終わろうとするときに仮面を脱ぎ捨てて彼女が仮面の主であったことじたいを隠そうとするのかもしれなかった。仮面を脱いで素顔を晒したタマラは王家の娘にあらずしてただの人間の女性なのだ……

 寝室はどうにもこうにも四角くできている。シューシューというヘビの口から洩れいづる音で父親を退散せしめたものの、父親は地下の墓室にタマラがいたことを察知していた。仮面の王はタマラにかく語りき「タマラよ、お前はわしに借りをつくった。無断で地下の墓室へ侵入した罪はわしが免罪料を貸してやる。返済には一年かかる」王の奇妙な宣告は本来なら恩着せがましい申し出に類していたが、水溜まりに浮いた石油の七色の悪そうな怪しげな有無をいわさぬ光と輝きを放っていた。王はいちだんと声をひそめて『お前は一年のあいだクロゼットのなかを寝室にしなくてはならぬ』貸しを返しおおせるまで狭いクロゼットをねぐらにしてまるで猫型ロボットのように寝起きすることを強いられたタマラはしかし、案に相違してクロゼット『そこはサモトラケのニケを格納するには狭すぎましたが小便小僧の像をしまうにはやや広いのでした』の内部が気に入り、一年の返済期間をとうに過ぎて成人してもこの木の箱のなかで眠っているのだった。『まるで棺桶のなかだ』タマラは地下の墓で祖父の遺体が眠る棺桶に出くわしてから、自分はあっという間に棺桶のなかに入る、入っているだろうと予期するようになった『死は生と同じくわたくしの最愛の友であります』ねずみ色の外套を着た痩躯の中年男が冥府の使い(死神)であり、同時に齧歯目のネズミ妖怪(金銭の亡者)であることはそいつにレクイエムを依頼されたアマデウスならずともよく知っている。

 

◆ライオンは寝ている

 

「タマラ。夕飯だよ」父親の声がした。クロゼットのなかで昼寝していたタマラはめんどくさいめんどくさがりのナマケモノのミツユビのしぐさで寝室の観音びらきの扉をあけ、外に足を踏み出すとまた寝室が広がるマトリューシュカ現象を身にまといながら『夕飯』といわれても食べ物次第では食欲をまるでそそられないことにはたと気づいた。前にもこんなことがあったし、今後もあるだろう。

タマラ「お父様。夕飯のおかずはなんですの?」

王「なに? おかず?」

タマラ「そうです。わたし、おかず次第では夕飯を食べる気がしません。イシイのミートボールとかハンバーグとかファミチキにはいい加減食傷してますのよ」

王「このごろの若いもんは、色々とうるさいな。夕飯はトウモロコシ饅頭だよ」

タマラ「トウモロコシ饅頭はおかずじゃありません。主食です。いつも食べてるじゃない?」

王「なるほど、いわれてみれば台所のコーンミールの袋に主食用トウモロコシと書いてあるな」

タマラ「お父様、おかずはなんですか? お・か・ず」

王「おかずはね、鯛(魚類)の尾頭付きだよ。メデタイ、メデタイ」

 あまりおめでたい気分にもならなかったがタマラは鯛の尾頭付きなら確かに高級感があり贅沢なご馳走のムードが『渚のアデリーヌのように』麗しく漂ってきたから『それなら食べよう』と決心した。ワクワク感が足もとから胃袋を通り抜けて頭のてっぺんに達した。タマラが食堂で席につくとポーランド人の給仕が大皿に銀の蓋をした料理を運んできた。給仕はタマラの耳元に「鯛の尾頭付きです」とささやいた。給仕自身の手によって銀の蓋がとりのけられると大皿の真ん中に冷めたたい焼き(小麦粉のお菓子)がのっていた。

 バリーン、ガッシャーン! テーブルの上から大皿とその中身のたい焼きと銀の蓋が投げ飛ばされ、床に落ちて散乱しながら銀の蓋は半球体のボウルだからして上下逆さまに床に転がるとしばらく落ち着きなく回転していた『天体の回転について『我々の地球のまわりをお日様やお月様や星々が回っているのでなく実のところ我々の地球こそが回っているのは自明でありまして……』』タマラは身も世もなく泣き出すとからだをよじりながら父親を非難した。「お父様に騙された!」王はバッタの仮面姿でうろたえて椅子から立ったり座ったりした。どう弁解したらいいやら王には自己正当化し得る言い訳が思いつかなかったのである『……いえ、その、ヤバいことになる、なりそうなら引っ込めます。お日様とお月様は依然天空を回っておられます。わたくしは異端ではございません』床の上に落ちたたい焼きは本当に水から陸に釣り揚げられて命を喪った魚のように見えた。仮面の王は苦しまぎれにたい焼きの焦げたところを見下ろして「いやタマラ、たい焼きがオーブンのなかで焼けてたからな、せっかくだからお前にあげようと思って─⁠─⁠」するとタマラは間髪入れずに「オーブンで焼くのはグラタンだよ! たい焼きは鉄板で焼くんだよ、この嘘つき!」王ののどからギャフンというような降参の吐息が洩れいづるのであった。

『たい焼きは……』涙を拭きながらもいまだ泣き泣きタマラはドリルを解いた。『お父様はときどきつまらない冗談を言いました。ある日わたしに「タマラ、庭をごらん。ホラ、モクレンが咲いているよ」と声をかけました。ですがわたしは問題集を解いていたので『問題』とにらめっこしてとても庭など眺める気になれなかったのです─⁠─⁠第一、家の庭ならいつでも見られるじゃありませんか? ─⁠─⁠いまここでお父様が死んでしまうのなら別ですが。わたしがお父様の呼びかけを無視しているとお父様が肩をすぼめて嘆息し「きみはモクレンに目もくれん」と言うのが聞こえました。わたしは癇癪を起こして机の上にあるものを全部床に払いのけると仮面をかぶったまま両手で顔を覆って泣きました。「なにがおもしろいのか、全然わからなかった!」お父様はオロオロしました。私には仮面の父がオロオロして太ったからだを意味なく左右に揺らしてジタバタするのがおかしくて、そのために泣いてみせたのです』

 タマラは『ムズい問題集』をひらいた「ムズい問題集は難しそうでそれほど難しくないちょっとムズい『ムズムズ足症候群またはムカデ将軍になりたい人にうってつけの』参考書です。何問か解けばムズいのムズくないのびっくりするほど浪漫があって、きっとあなたもニッコリするでしょう」『にっこにっこにー』と呟きながらタマラは問題を解かずにページいちめんにたい焼きの絵を描いた。坊主が屏風に上手に描いた坊主の絵よりは下手だったが頭ならびに腹(尾頭付き)のドグマに憑かれた人よりはマシだった。『お父様は悪い本の読みすぎよ。一日一悪とか悪いことをする人の本を読むと頭のなかに『悪の華』が咲いちゃうのよ』

『カインは弟のアベル(息)を窒息させるか階段から突き落とすかして亡きものにしてから、毎日鼻の頭が痒くなり爪で引っ掻くのでした。まるで弟の亡霊が取り憑いてカインの鼻に痒くなるふりかけを振りかけたかのようでした……カインは神様に出頭を命じられる前にブドウ球菌に冒されてできた鼻の頭のおできにオロナイン『愚かなるカイン』軟膏を塗るのでした』

 ジャングルの王は椅子の上で仮面の顔を眠そうにのけ反らせた。悪いことならいつでもいくらでも閃いた。善きこと、善行となるとからだを無理に曲げてよじっても浮かばなかった。自分の名前を善行か善男に改名しない限りできない相談なのだ……仮面の王は自分がまだ王でなかった『王子だった』ときを思い返して追憶に耽るのだった。

『父の命令でぼくらは毎朝エッグノッグを飲んだものだ。あの甘ったるい牛乳と卵の化合物を『父にエッグノッグを飲まされたのはぼくがよろこぶと思ってのことではなく、だれかがエッグノッグに毒を入れることを期してであった……』いきさつはどうだって構わない、ぼくのためにでなく叔母さんのために供せられたエッグノッグをぼくが間違えて飲んでしまったのだとか、トウモロコシ神の供物にするはずのそれを卑しいぼくが盗み飲んだのだとか……毒はさいわいにして混入していなかった。父はみずから毒を入れることは決してなかった『殺人の嫌疑をかけられることをあの父がやるものか!』だれか他人が、悪質なイタズラでもなにかの手ちがいでもよい、息子が飲むエッグノッグに毒を盛らないものかと待ちぼうけていたのだ『この世はトランプ遊びだ。札を引いて吉と出るか凶と出るか、フルハウスかそれともババを引くかの命がけの賭けだ』……それ以来ぼくはこの世界は純然たる悪意によってできているのだと確信している』

 

  トウモロコシの神に捧ぐる供物にと

  エッグノッグ少し 少しつくりぬ

  いと少しを

 

『ジャングルの仮面の王『あるいは太ったバッタ』は本当に下らない話とはどういう話なのかを考える。少女を幾人か王宮に侍女としてはべらせて『彼女らにいやらしいことをする目的ではない』娘(タマラ)と大して変わらない年頃の侍女たちに王宮のなかだけでの通り名を付けてやる、桜花とか桃花とかスミレとか、そんなのを。ちょいと宝塚ふうだが悪いネーミングではない。でも桜花とか桃花とかスミレが鳩首して話している井戸端の談話がライオンの昼寝のことだったらこれはもう『侍女なんか雇うんじゃなかった!』レベルで下らない話だ。でも我らがジャングルに果たして百獣の王ライオンは棲息しているのであろうか? ─⁠─⁠この千古の疑問に仮面の王も考え込まざるを得なかった。『真実』を究めようとする王のリチェルカーレ式の探索は彼の顔に『毛糸でできた』たてがみを生やし、全身に茶色の着ぐるみか獣の皮をまとい、ライオンらしく壮大なあくびをすると後肢で耳の裏側を掻く太っちょに似つかわしくない軽業を披露して『ホントにホントにホントにホントにライオンだ(ガオー!)』静かに唄を口ずさみ始めた。

 

ライオン・ソング (←ライオンの歌て意味だよ『そんなの知ってるよ!』)

 

  ライオンは寝ている ジャングルの奥深く

  たてがみは柔らかく ぺしゃんこにたたんで

  ガオーと吼える日が また来ると思えないほど

  スヤスヤグーグー 猫のようにまどろむ

 

 ライオン(の姿をした王)は本物のライオンがこのジャングルのどこかにいるのか依然考えている。それは下らない話ではない。ライオンがいるのなら、いつか王のもとへやってきて王を喰い殺す『弑逆者となる』だろう。そして王権を簒奪して王宮の王座に鎮座ましますのだ。王は自分の首を咬みに来るライオンを夢見てうっとりする。甘噛みなんかするわけがない。鋭い牙に首の骨まで切断されて血がどっと噴き出す。ライオンの口は血に染まる。その夢を最初に見たのは父親に命じられてエッグノッグを飲まされていた頃だった。あれから何年経ったろう? ……ポーランド人の嫁との間に娘も生まれた。ライオンはもしかして娘のタマラを先に咬み殺すかもしれない。若い女の肉は柔らかくて美味しい。だが一向に現れないところを見ると、ライオンはきっと四六時中寝ているのだ、唄の通りに。王はライオンの姿でそう思う』

 

◆干し草の山

 

    「この世は干し草の山だ。だれもが干し草をありったけ掴もうとしている」  ─⁠─⁠フランドルの諺

 

 ジャングルの前に建つ営林署のおじさんは夜中に部屋に入ると机に『パン・茶・宿直』を並べて「おっほん」と咳払いをするのでした。お茶を覗き込むと茶柱が立っていました。おじさんは「ふん、今日はツイてるようだわい」と呟きました。つづいてビニール袋に包まれたパンを食べようと袋をあけるときに、袋に印字された賞味期限が昨日なのに気づきました。

 このとき、きみは怒り狂ってパンを袋ごとつかんで壁に投げつけるか? 『トモナガ博士によるとパンを壁に無限に近い回数投げつづければパンは宿直室の壁を通り抜ける』それとも「一日くらい構わない」と鷹揚に袋からパンをとり出して毒喰らわば皿までのゲテモノ喰いの本領を発揮するか? 私だったら後者だろう。なにしろ腹が減っているのだ。営林署のおじさんは木ばかりしらべてげっそりやつれているからなにか腹の足しになるものを食べないといけない。それにしても解せないのはお茶に茶柱が立っているのに賞味期限が切れたパンを手に入れたことだ─⁠─⁠

 私が物書部屋でここまでジャングルの本を書き継いだときに玄関のベルが鳴った。『もしもわたしがベルならば』私が立って小屋のドアをあけると、だれあろう、ハワイの人買いさながらのジョージが馴染みのアロハシャツ姿で立っていた。

「やあ」とジョージは挨拶して「なんで挨拶なんかするんだろうな? ありきたりでお座なりで月並みな言葉を発する人間の習慣は生活習慣病に類するときみは思わんかね?」

「性生活習慣病に類することではなさそうですね」と私は答えた。「ベッドのなかで『こんばんは!』なんて興ざめをぬかすやつはいませんから」

「確かに」ジョージは微笑を浮かべた。「ところできみはいまもジャングルの本を書いているのかね?」

 私はうなずいた。するとジョージは「やめてもらいたい。すぐさまジャングルについてなにか書き記すことを一切やめるんだ」と強い口調で言った。弱々しい口調だったら逆に私はおどろき、疑心に駆られただろう。

「なぜです?」私がきくとジョージは「きみは告解室にもぐり込んだモグラ『モングラーだかマングラー』みたいに自分の経験と記憶を洗いざらい本に書くつもりだな? その記事にはわたしに関することが混じらないとも限らん。人によってはわたしが悪人であるかのように勘違いしかねない。わたしの名誉を傷つける行いは中止して欲しい」

『─⁠─⁠どうせ、きみのことだから干し草と聞いて干し草の山にスマホを落として探す話でもすると思ったんだろう? どうしてそうベタな発想になるのかね? 星屑の屑になるよりは干し草の草になるほうがなんぼかマシだろう。ところで拳骨大のデカい隕石がジャングルに墜ちてきたときに、星屑の屑を拾ったのは『詩の一行で自分が人間の屑の屑でないことを証明したいと願った』シャルル・ボードレールではなくてイジドール・ボートルレだって知っているかね? あの少年探偵さ。墜ちた隕石は溶岩のように真っ赤に燃えて熱かったからイジドールはバケツに汲んだ水をくり返し隕石にかけて石を冷ました。明くる朝、石が冷えてからその地球外鉱物を猫車で家に運んだ。星屑なんか家に隠してどうするんだときみは思うだろうが、イジドールは星まで飛んでいた宇宙飛行士が宇宙船の事故か故障で宇宙空間に投げ出され、そのまま地球の引力に引っぱられて大気圏で燃えて流れ星になった故事をちゃんと知っていたのだ『この鉱物は燃え固まった飛行士の亡骸なのだ』猫車がもとは生きた猫だったように、ね』

 朝。営林署のおじさんは薄暗い営林署のそばを散歩しながら夜警していた。でももう朝だから夜警は終わりだ。夜警の終盤の醍醐味は辺りが次第に明るくなるにつれて夜警より散歩の度合いが増していくことにあった。おじさんはこの時間が好きだった。この時間に目にするものは野良猫であれ泥棒であれ地面を這うゴキブリであれ好きだった。おじさんはそろそろ用無し(洋梨、西洋梨)になりかけた懐中電灯を持ちながら『おや?』営林署の前のジャングルのとば口に一人の若い女が倒れているのを見つけた。その女は顔面になにもかぶらずにストアで買った十秒チャージのゼリーを楽器のように『アホーダーのように』口にくわえたまま力尽きて草の上に横たわったように見えた。おじさんは十秒でエナジーをチャージできるゼリーをのどに入れておきながら力尽きたところを見ると『彼女は十秒経たないうちに倒れ、回復に間に合わなかったのだ』と解した。『残念無念また来年』おじさんがふと懐中電灯を倒れた女の数歩先に向けると地面に裏返った仮面が落ちているのを見つけた。『おお! これは……』おじさんが拾うとそれはまさしく昆虫の直翅目のバッタの仮面であった。

「思わぬ拾い物だなあ!」

 おじさんは仮面をつかんで営林署へ帰ることにした。その背後でゼリーを口から離したタマラ(仮面の主)がムクリと起き上がって「ちょっと! わたしは? わたしを助けなさいよ!」と声高に呼ばわった。おじさんは振り向きもせずに営林署に入り、ドアをバタンと閉めた。閉めた勢いで営林署はブルンと震えた。

取調官「なぜジャングルの王女のタマラを助けずに仮面だけ営林署に持ち帰ったのかね?」

おじさん「タマラが仮面をかぶっているところしか見たことないですからな。倒れてる素顔の女は知らない人です」

取調官「それじゃ仕方がない」

 おじさんが営林署に持ち帰ったバッタの仮面はどうなったのか? ─⁠─⁠そりゃ、おじさんも一度は好奇心に負けてかぶってみたさ。だれも仮面の王になりすます欲求に打ち勝てやしない。でもおじさんは宿直室でパンの賞味期限が切れていなければ上機嫌で、もし一日かそこら切れていたとしても構わずに食べる奥ゆかしい性質だったから、仮面をかぶった姿を鏡に映してみて『なんだか自分らしくない』と感じてしまったんだ。いつもとちがうベッドで寝心地が悪いように『仮面の営林署のおじさん』は自分らしからぬ外見に居心地の悪さをおぼえて急いで脱ぎ捨てた。それで仮面にはすっかり関心を失った。何日かして私が営林署を訪れると、おじさんは「やあ」と言って「ジャングルの本は順風満帆に書けてるかね?」私はニコニコ『にっこにっこにー』しながら「万事快調ですよ」と答えた『だが事実をいえば必ずしもそうとは言えなかった』おじさんは私にお茶をいれてくれたが茶柱は立たなかった。私はその日靴を履いていたが、もし下駄を履いていたていたらきっと鼻緒が切れただろう。私がお茶を飲んでおじさんに礼を言って営林署を辞そうと思ったとき壁にかけてある仮面に目がとまった。「この仮面は?」私がおじさんにきくと「ああ、ジャングルのとば口で拾ったんだ。良かったらあげるよ」とサービス満点の返答をくれた。おじさんは上記のごとくこの仮面に関心を失っていたので、いまや仮面に一文の価値も見出していなかったのである。

 かくて私は仮面をかぶって家路についた。

『国際仮面管理委員会より博物館に進言する。ツタンカーメン王の黄金仮面のあごひげがとれてしまったことはまことに遺憾である。本件につき当委員会は博物館員のずさんなる取扱いに厳重に抗議し、対応を検討する『ところで日本ジャングル地区のジョージ・トコロ委員によると仮面のあごひげの再接合には人工接着剤(アロンアルファ等)ではなく天然の接着成分である蜜蝋を使用するのが望ましいとの意見が提出せられている『古代人がアロンアルファなんか使うわけないでしょ。モチは餅屋だよ』参考にせられよ』とれてしまったのが鼻でなかったのはとにかくも不幸中の幸いである。あごひげに意外の重量があり、仮面を移動させる際に仮面本体から『つまりファラオ(王)というやつは仮面こそが本体で、肉体は付属品なんですな』脱落せらるる危険があったことは十分に予測されてしかるべきであった。あごひげは仮面本体とともに一体にかたどって鋳造された部品ではない、仮面本体とは別々に造ってあとからくっつけたものである。いわばあごひげは付けひげなのだ。ということは黄金仮面のあごひげはアホーダーのツタンカーメンないしチンコカーメンと同族に列せられるべき存在といえる』

 私はジョージ・トコロが私の物書小屋を訪れてジャングルの本の執筆を中止するよう申し入れたときから不吉な予感がしていた。私とジョージは「きみがわたしのことを書いたら訴えてやる」「では、あなたがぼくにそう言ったことをジャングルの本に書きましょう」「なんだと?」と愉快きわまる談判をして結局決裂した。ジョージはプンスカ怒りながら物書小屋を出て行った。懐中時計を電気椅子にかけてぐんにゃりさせることを夢見るジョージが『鈍器と楽器を間違えて』凶行に及ぶ懸念はつとにあったことが私に予期できないわけではなかった。だがその心配に振り回されるよりも早く月日は流れ、ジャングルのカーニバルの日が来てしまった。

『ジャングルのカーニバルは古い伝統を持つジャングル地区の奇祭である。古い伝統を持つがヴェネツィアのカーニバルより古くはない。というのはジャングルのカーニバルはヴェネツィアのカーニバルを模した祭だからである。ただし模したのは街のみんなが仮面をかぶっているところだけで、ヴェネツィアのように仮面さえかぶっていればなにをしても『他人のパンを盗み食いしても痴漢をしても道路で寝ていても』許されるような特権は与えられていない。特権ゆえにヴェネツィアには世人をして「あいつ、毎日仮面かぶってらあ!」と言わしめる好人物が少なくないが、ジャングルのカーニバルでは仮面をかぶる以外のなんの権利も認められていないためにいわば純粋に仮面をかぶる楽しみを味わいたい人が仮面をかぶるために仮面をかぶるのである『隣の竹藪に竹立てかけたかったから竹立てかけたのである』カーニバルは素顔では参加できず、参加者は仮面をかぶった人だけである。

 ジャングルのカーニバルは階段で行われる。なんでまたそんな疲れる場所で行われるのかと疑問に思われても古い伝統だから仕方がない。カーニバルの朝が来るとしぜんに心は浮き立ち、ものみなウキウキと仮面をかぶって階段にやってくる。階段のそこかしこに立ったりかけたり寄りかかりまた寝そべる仮面人物を目にするならば、この階段が見かけは怖いがとんだアルチンボルドだと首肯せらるるであろう』

 ジャングルの仮面の王もまたいつもの仮面をかぶって太ったからだを左右に揺すりながら階段にやってきた。王の権限と責務ゆえに階段の最上段に否応なしに上がらされて腰かけていた。王は娘のタマラがいないかと階段を見渡した。すると下のほうの段に見馴れた仮面の人物がワンピースを着て座っていたので『あそこにいる』と王はホッとした。安心すると王はすぐに追憶に耽るのだった。

『だれもが階段にやってくる。この階段は干し草の山だからだ。みんな干し草をつかむために階段の段という段に群がるんだ。あの日のカーニバルも仮面をかぶった連中で階段はごった返していた。滑り止めのゴムをわけもなくじっと見つめるやつや手すりに陶然ともたれかかるやつもいた。仮面のせいで顔つきはわからないが、なかには薬物をやってるやつもいたにちがいない。親父は年老いていたが王だから最上段に鎮座ましましていた。ペスト医者の鳥の仮面『鳥人間』をかぶった給仕が一人一人に飲み物を配っていた。階段でミラノ風ドリアをがっついているやつもいた。ぼくはエッグノッグを渡されて飲んだ。親父もエッグノッグを飲んで、それからゆらりと立ち上がった……親父のエッグノッグに、薬かそれとも酒でも混入してたんじゃないかな? ……親父はひとつふたつ階段を下りたとたん、足を踏み外して階段を転落した。下の段にいた連中はぶつかったらたまらないから親父をよけた。親父は階段の下へまっしぐらに落ちていき死んだ。足腰が衰えていたんだ。もしかしたら自分から足を踏み外したのかもしれないが、いまとなってはわからない』

 タマラの仮面と女物のワンピースを着用していたのはなにを隠そうこの私だった。なぜといって、私には営林署のおじさんにもらったタマラの仮面しかなく、タマラの仮面をかぶるならタマラのフリをするのが妥当と思われたからだ。単純素朴な思いつきで他意などない。ペスト医者『鳥人間』が階段にいる人たち一人一人にエッグノッグを配っていた。最上段にいる王にも下の段にいる私にも配られた。私は仮面越しにペスト医者の長く伸びたくちばしの仮面の後ろ側にある顔を覗いたが、みごとに遮蔽されていてだれだかわからなかった。私は渡されたエッグノッグを飲んだ。この甘ったるい牛乳と卵の化合物は私の好物ではなかったが、カーニバルに供された飲み物を飲まないのは道理に反する。飲んだとたん口のなかに甘味が広がり、次いで甘味のなかにほのかな苦味が『大人の舌を満足せしむるビターチョコレートのように』感じられた。それが温かい人情の底に潜む邪悪な意志であると気づく由なく、私は飲み込んだ。

 しばらくして発作のように気分が高揚してきた。私はその場で立ち上がり、頭がくらめいて倒れた。階段から転落せずに済んだのは私のからだがその一段に接着剤のように貼りついていたからであろう。私の意識が遠のくなかでペスト医者が私に屈み込み、ささやく声が聞こえてきた。「おお、タマラ。きみじゃなかったんだよ。許してくれ。わたしは弑逆者になるつもりだったんだ。森の王をやっつけたフレイザーのように。オリバーなクロムウェル犬はゴッシュこの野郎だから好かない」『「ゴッシュは好かぬ。ゴッホも好かぬ」と善三郎は言ったとさ』私の耳にささやいたのはジョージ・トコロにほかならなかった。

『営林署のおじさんはジャングルの仮面の王が営林署にお出ましになったのでお茶を出しました。王はお茶を覗き込むと「ダメだ」と言下に言いました。「なぜです?」「茶柱が立っとらん。今日の勝負に勝つためになにがなんでも茶柱を立ててもらう」おじさんは二番煎じをいれるのは王に失礼だと思い茶葉を替えようとしましたが、王は「そのままでいい」と二番煎じをいれさせました。六番煎じか七番煎じか、完全に出がらしになってようやく茶柱が一本立ちました。

「よし!」王はおもむろにトランプ遊びの札をとり出すと営林署のおじさんに勝負を申し出ました。二人は宿直室の机に差し向かいになりセザンヌのカルタ遊びをする田紳の図よろしくポーカーを始めました─⁠─⁠営林署のおじさんは数枚の札を引いたところであと一枚でフルハウスに届きそうになり、『しめしめ』とほくそ笑みました─⁠─⁠すると王は一枚札を引くなり「よしきた!」と叫んで手持ちの札全部を机にぶちまけました。営林署のおじさんが見ると、ひらいたトランプ全てがあのピエロに似たジョーカーで、どの札にもニタニタと悪魔のような微笑を浮かべているのでした』

 私はカーニバルの階段から『死体として』担架にのせられ運ばれた。運ばれた先は火葬場ではなくジャングルの王宮だった。一昼夜のあいだ私は昏睡していたらしい。目を覚ますと『私がカーニバルでかぶっていた』仮面をつけたタマラがいた。「やっと生き返った!」彼女は私を墓場から運び出されて蘇生させられたフランケンシュタインの怪物のように宣った。「死んでないよ」私は抗議した。「でも死にかけたよ。あんたは致死量に近いストリキニーネを飲んだのだから」私が意識を失う直前にジョージが言った言葉を私はさっき見た夢のごとくに反芻していた。彼は本当に王殺しを企てたのだろうか? 王はピンピンしていた。カーニバルからすたこらさっさと営林署の方角へ向かう姿が目撃されている。もしや、標的は初めから私(ジャングル人間)だったのではあるまいか? ─⁠─⁠その思念が脳裡を風のように流れたとき、私は見るべきか見るべからざるものか、見てはいけないものをいきなり見てしまった。

 タマラが私の前で仮面を脱いだ。

「あ、あ、あ……」私が絶句するとタマラは「なによ。わたしの素顔がおかしい?」

『ジョージは自分がエッグノッグにいれたストリキニーネが標的のジャングル人間に命中せずにこともあろうか王の娘のタマラが飲んでしまったことに深い懺悔の念を抱いて『かくなる上は死んでお詫び致そう』と薬物入りのエッグノッグを自らあおった。甘味のなかに苦味がほのかに混じる大人の舌にうってつけのビターチョコレートの味覚がすればジョージはきっと冥府の扉をねずみ色の外套を着た死神とともにアロハシャツを着てノックしていたにちがいない。だがのどに流し込んだエッグノッグはほんの少しシナモン(肉桂)の香りがした。そしてジョージの頭はお約束にくらめいてその場に倒れ、それからの時空は彼の知るところではなかった』

 

◆ジャングルブック

 

 私は小屋に入ると物書部屋に入った。私の小屋と物書部屋はごく狭い『わしの管区は広くない。だが広いところより始末が悪いのさ』この狭いところでジャングルの本を書きつける私はジャングル人間で、次に書くべき出来事や事柄が決まっていないとき、私はきまってノートの白いページに目をやられ『紫煙が目にしみるように』そのまま傍らのベッドに崩れ落ちて横たわるのだった。『いま私が書くべきことはなんだろう?』もうそんなには、書くべきことは残っていない。

『目が覚めると俺は公園のベンチにいた。朝であることは明るさと空気感でわかった。その公園は都会の片隅にあるなんの変哲もないちっぽけな公園で、ベンチのほかには幼児が乗って遊ぶ揺れるイルカとペンギン、それに公衆トイレがあるばかりだった。俺はベンチから起き上がり、トイレで用を足すと再びベンチに戻って腰かけた。そのときになって初めて俺は自分がだれだかわからないことに気づいた。自分がなにものか、きれいさっぱり記憶がなかった。あるいは俺は公園のベンチで寝起きして公衆トイレで用を足すために生きているのかもしれない。そうだとしても不便はなかった。

 俺が立ち上がって歩き出したのは公園に老人と子供から成る一団が侵入してきたためで、彼らは俺のベンチの横のベンチにラジカセを置くとにぎやかなピアノ伴奏に合わせて体操をおっ始めた。俺は静寂と自分だけの居場所を乱されて思わず嫌な顔をした。だが私が知らないだけで、彼らは毎朝ここに来て体操をする本来の権利者であり、俺のほうが不時の侵入者であったかもしれない。というよりまさにそうなのだ。俺は居場所を奪われて公園を出るとあてどもなく歩いた。

 俺はこれからきっとヒモの男に風俗店で働かされていた女と知り合って所帯を持ち、アパート『ハーモニカ、ハモニカ長屋』をねぐらにするのだろう。俺の名前は思い出せないから女が俺に適当な名前を付けてくれるだろう。やがてひょんなことから机の引出しにしまい込まれた運転免許証を見つけ出し、俺はそれに書かれたジョージ・トコロという耳馴れない名前を知るだろう。そして占星術師の店へ探偵を依頼するとも占ってもらうともなく訪問し『全くこの世はだれもがだれかを訪問する世の中だ!』記憶を喪失する前のヤバい過去について示唆を受けるだろう。俺は過去を知るためでなく現在の自分の生活の安全を守るためにある行動に出るだろう。

 そのような予想『預言』が走馬灯のごとくに俺の脳裡によぎったとき、俺は街はずれの殺風景なところに来ていた。そこに小さな小屋があった。むろん俺はこの場所もこの小屋も思い出せなかったが、眺めるうちになんとなく気持ちの良い人なつこい感じがしてきた。それで俺はベルを鳴らした『もしもわたしがベルならば』ややあって小屋のなかから男が出てきた。俺よりも若い、若く見える男だった。彼は俺を見るなり「ジョージ!」と言った。すると男の後ろから今度は女が出てきた。どちらも俺の知らない人たちだ。ところが女も俺を見るなり「ジョージ!」と口走った。こいつらは人を見ればジョージと口走る癖があるのかもしれない。「だれのことかね?」と俺は言った。二人の男女は顔を見合せて口をあんぐりあけると、口々に『あのとき間違えて』とか『忘れな草からとった忘れ薬を』とかわけのわからないことを言い出した。俺は彼らが俺の知らないことを詮議するのにだんだん苛立ち始め、ともかく小屋のなかに入れてくれと頼んだ。

 ようやく小屋のなかに足を踏み入れたら室内にラジオがかかっていた。部屋は狭かった。男と女はベッドに座っていたので俺もそうした。「ジョージ、記憶をすっかり失くしちまったんだね」と男が言った。記憶がある二人に挟まれて俺一人記憶がないと、なんだか記憶を失ったこと、過去を失ったことが重大な災禍のような気がしてきた。ジョージ、ジョージと聖ゲオルギウスみたいな名前で呼ばれても俺にはさっぱり自分のことを思い出せない。そのことが残念無念また来年であり、恨めしく『うらめしや!』もあり、悲しくもなってきた。俺は頭を抱えながらどうにか記憶の糸を手繰ることができないものかと溺れるものは干し草をもつかむ思いで願ったとき、ラジオからラリパッパの口ずさむあまりにアマリリスなしらべが流れてきた。それを聞くや、俺は一条の光を見つけた気がして思わず立ち上がった。

「わかった!」俺は二人に叫んだ。「俺はこのアマリリスの曲が好きだったんだ!」

 俺は思い出した、─⁠─⁠俺がアマリリスの曲が好きな人間だったことを。─⁠─⁠男と女は俺の記憶の回復をよろこび、狭い部屋のなかで『ともに祝わん』祝福してくれた』

 ジャングルの仮面の王はカーニバルの階段の最上段でウトウトしている。この状況が剣呑『甚だ危機的』なことは次の唄がよく伝えている。

 

  トイレでウトウトしていたら

  泥棒さんに見つかって

  急いで起きても もう遅い

  とうとうナイフで殺された

 

 唄を知ってか知らずか王はどこ吹く風のへっちゃらでウトウトしている。太っちょの王は人一倍太っている分だけよく眠る『眠りの森の王だ』憂愁もなく憧憬もなく学力のつけ入る隙もなく、ただひたすらライオンのように猫のように眠るばかりの王を訪ねて娘のタマラと私(ジャングル人間)が階段をのぼりかけたとき、王はようやく目を覚まして『ムニャムニャ』寝言のようにきざはしの下の娘に言う。「タマラ、トウモロコシ神にお供えは済ませたかね?」肝心の娘は隣の私とぺちゃくちゃお喋りするのに忙しくて父親の『思いつきでものを言う』質問はスルーする。そのことにではなく、このタイミングで目蓋をあけた王は眼下に小さく見えるタマラが仮面をかぶらずに素顔を晒している『彼女の素顔は母親譲りで美しいのだが』ことに気づき、憤慨のあまりに頭の頂点から活火山を噴火させる。「タマラ、なぜ仮面をかぶらない?」王は最上段にすっくと立ち、娘に宣告する─⁠─⁠「お前はまたわしに『借り』を作った。この貸しは高くつくぞ!」─⁠─⁠私とタマラは背負っているリュックサックからありったけのトウモロコシをとり出すと王をめがけて投げ始める。「やめろ、こら!」逃げ惑う王に逃げ道はない。なにしろ階段は階段しかなくて上がったら下りる以外にどこにも通じていないのだから……オヤ、王が防戦一方をやめてトウモロコシを拾い始めたぞ。どうやらこっちに投げ返す魂胆のようだ。ほーら、投げてきた! トウモロコシ合戦はここいらで停戦にしよう、私とタマラは階段を駆け下りて逃げる、逃げよう、─⁠─⁠え、どこへ逃げるんだって? そりゃあ決まってる、トウモロコシのないところへさ。

 

 

 

 

 

                          完

 

 

 

 

すっぱいマン (創作)

 

 

 

 

 朝。寝坊してベッドに寝ていたら目覚ましがわりに電話に起こされた。上司からだ。「キムです」と私は電話口に言った。「当たり前のように出やがったな」上司は怒気を含んだ声音で言った。全くだれもがだれかになにかを言う世の中だ。「もう九時だぞ。まさかベッドのなかじゃないだろうな?」上司のセリフには、目の前で自分の好物の海老バーガーを食べた男を見て奪われてもいないのにとがめるような調子があった。「ベッドのなかです」私は言下に答えた。海老バーガーを食べたのはまさにこの私なのだ。物事はハッキリ言わなくてはならない。

「きみはエム78の一員の自覚があるのかね?」上司は高説を垂れ始めた。78とは七十八と読む。そうでないと暗号が成立しない『813は八百十三と読むのですよ……大字なら捌百拾参です。8と1と3なんて区切った日にゃあ、怪盗紳士がルノルマン警視総監に化けちまいますよ』上司は私を会社の従業員かなにかのようにとがめた。私は不本意ながら上司の部下だが従業員になったおぼえはない。

「いつからエム78は一般企業になったのですか?」私はベッドからもぞもぞと起き上がりながら上司にきき返した。

「一般企業でなくとも一般的な独立法人のフリはしなくちゃならん」上司は上司のフリをして私に説いた。「キム。きみの勤怠はまるで一般的ではない。一般市民のフリができていない」

 エム78は東京都の外郭団体を装った国の情報機関で、私はその一員にしてフリージャーナリストのフリ、フリーランスのグルメリポーター彦摩呂、彦飯、フリーメイソンリーの友人のフリ、友達の友達はまた友達だから世界に広げる友達の『わ』が私とみんなをつなぎとめるフリをして生きる男だ。私の名前は中年キム。ジャングル・ブック(密林の書)に出てくる少年キムとちがって少年でないのは私がすでに中年だからだ。こんな私もかつては青年だった。少年だったときもある。それはだれも疑わないから疑いを容れない事実なのだ。

「すぐに出勤します」私は電話に対して宣言した。電話にならどんな宣言も可能だ。「早くしたまえ」上司はあたかも私の上司であるかのように述べて、私の行動を急かした。彼に私を急かす権利があるのだろうか? 権利があるフリはしているだろうし、見せかけの権利にもそれなりの権威は蔓草のように絡みつくだろう。ツルニチニチソウのように。私は草花や動く物など生き物のことを考えるとたちまち嬉しくなってしまう。だが上司の権威は背広の胸に飾った勲章だかメダルだかワッペンで、それは偉いフリをしているが裏返すとなにをしでかすやらわかったものではない。『エム78はひかりのくにの星雲だ。きみもこの星雲の住人であるからには毅然として王様のようにルートヴィヒのように振る舞わねばならない』星雲の紋章を胸ポケットに縫いつけたキム上司は─⁠─⁠彼は別の名を持つのだろうと思われたが一般的にいっていつもキム上司だった─⁠─⁠私たち星雲所属のすっぱいマンを王者のごとく君子のごとく生きろとことあるごとに言い聞かせた。『ただし偉ぶらない王様になれ』なかなか難しい話だった。私はカップラーメンの底にスープが沈澱してよくかき混ぜないと味が全体に染み渡らないような難しさを感じたものだ。

『ルートヴィヒは……』バイエルンのルートヴィヒは上司のお気に入りだった。ただしワーグナーと城に狂った息子のほうではなく女狂いの父親のほうだ。上司はルートヴィヒの愛人のダンサーも気に入っているのだろうか? それは不明だ。あのタランチュラダンサー、からだに這わせたクモを追い回す性的な魅力にみちた踊りで知られた彼女はブリテン島から中欧へ渡ったすっぱいマン(すっぱいウーマン、いやすっぱいガールか)のひとりで、踊子がすっぱいマンなのは女歌手のカラスがカアカア鳴くと見せかけて実はすっぱいマンだったからには特段不思議はない。すっぱいマンのクモダンサーはクモダンスでルートヴィヒをたぶらかしていくつかの重要機密を大英帝国情報部エム16に送った。ところが私の上司がたびたび言及するのは騙されて情報を盗みとられたルートヴィヒであって、クモダンサーではないのだ。この複雑怪奇をどのように考えたらいいのだろう?

 もしかしたら複雑でも怪奇でもないかもしれない。私は物事を不可解にまたは難しく考えすぎているかもしれない。カップラーメンの底にスープの粉が溶け切らずに沈んでいるような、それを底からしっかりとかき混ぜないと全体によく浸透しないというふうな難しさに傾きすぎているかもしれない。『騙された』と見られているルートヴィヒのほうが実はクモダンサーを騙したのだ『王こそが真のすっぱいマンなのだ、それが証拠にルートヴィヒはバイエルンにあってますますの健勝と発展をつづけたが、クモダンサーは落ちぶれて欧州から豪州また合衆国へ渡る渡り鳥になり貧困のうちに世を去った』大英帝国のエム16は彼女を救わなかった。おそらく彼女はどこかで(バイエルンかハバナかハバネロか、定かでないがどこかの段階で)ドジッたのだ。ドジっ子は愛されキャラだがすっぱいマンのドジは愛想を尽かされる。クモダンスはヒゲダンスより人を魅惑する。それはまろやかにマイルドに人の俗耳を撫でる。ルートヴィヒはクモダンスに魅了された『フリ』をして彼女からブリテン島の大事な秘密を引き出していた。まことに人の世はキツネとタヌキの化かし合いだ。

 私は家を出てから松屋に寄りゆったりたっぷりのんびりと朝食を食べた。私のブレーキファーストは牛肉炒め定食だった。松屋は私を魅了する。松乃屋は揚げ物だらけであぶらっこいから行かない。かくして初台の近くの十二社通りに面した角筈の事務所に出勤したのは昼近くなってからだった。エム78星雲ひかりのくにには、東京都知事が来ていた。都庁舎はこの近くにあり星雲は都の委託のフリをしているから体面(見せかけ)の上でも知事はよく現れる。

「されど、我らが日々は静かに醗酵しておりまして……」私の上司が都知事の雪男氏に込み入ったあるいはセンシティブな談話を説諭していた。雪男氏はうんうんうなずいて機嫌が良かった。彼は緑のタヌキをかどわかして知事の座を乗っ取ったから好物の海老バーガーを奪いとったかのように調子に乗っているのだ。

「おはようございます」私は雪男氏をチラリと見ながら上司に挨拶した。上司は知事との会話を打ち切るための断りを入れて私に向き直った。

「おはようだと? いま何時だと思っているのかね?」

 私は壁にかかった時計を振り返るフリをしながら「おや、十一時をすぎていますな。こんにちはと言うべきでしたかな」と答えた。上司は私を寝台の上に満身創痍の体で寝かせて『モウヤメレ。オマエハ限界ダ』と告げそうな顔色で、私に別室に来るようにと命じた。私は肩をすぼめ、ついでに舌を出した。そうするとなんだか陽気な西洋人になった気がする。私は生き物が好きだがピエロにも心を惹かれていた。ピエロは西洋の真髄だ『ピエロがわからないやつは西洋人がわからない』ピエロが座長に叱咤されながら肩をすぼめてペロリと舌を出す、なんて陽気な飄々とした人間だろう! ああ、私は感嘆符を使ってしまった、疑問符しか使うまいと心に決めていたのに。

 

『よく来たな。まあ座れ』つまらないくだりは切り上げよう。私はエム78所属のすっぱいマンとしての品行と方正に欠くと上司に口をすっぱくして叱られた。叱られ坊主は夜の街灯の下で泣いているものだ。涙に潤んだ目で頭上の明かりを見上げたら虹がかかるだろう『よく来たな』街灯はいつも叱られ坊主を歓待しているだろう。だが中年キムの私を待ち受けているのはトイレの便器だけだった。私はすっぱいマンであるからして、所属のエム78の建物内のことを熟知していた。熟知はまたの名を知り抜いているともいう。私にはエム78星雲のどんなに小さな些細なことでも見逃さずに把握する習慣が身についていた。たとえば清掃のおばさんがトイレの液体石鹸を備えつけの容器に入れるときにいつも決まって銀色のシガレットケースのように光る蓋をきっちりと閉めずにだらしなく容器の上に浮いたままにしていることだとか。老人性の横着と銀色の蓋の懶惰な性質が手に手をとって『酒と悪魔が手に手をとって』液体石鹸の泉の水面上でカタカタと『邪魔なやつらをお祓い箱』不安定な音を立てている。私はいつも顔をしかめて蓋をグッと容器に押し込める。

 そしていまの私は上司にしぼられてやるせない気分で星雲の地下の廊下の奥にある『忘却の彼方の』トイレにいた。忘れ去られた地点にあるトイレは清掃のおばさんにも忘れられていたが、なにせみんなの忘却の彼方にあるから使われずにあまり汚れていなかった。私は地下へとつづく階段をとぼとぼと下り、廊下を蹌踉と歩いて忘却の彼方のトイレへ向かうのだった。トイレのなかにあるひとつの便器は、そいつだけは私を歓迎してくれた。『よく来たな。まあ座れ』私は便座にかけた。私に歓迎の挨拶までしてくれる親しげな便器に嬉しくなりながら、私はふと気になった。一体便器のどの部分が『まあ座れ』と宣ったのだろうか? ふつうに考えたら便座の弁だ。なにしろ人間の尻をのせるのは便座、馬蹄のかたちをしたこの腰かけなのだから。しかし尻をのっけられるべき部分が『まあ座れ』などと親切に宣うのは解せない感じがした。自分の上に座られてよろこぶのはマゾかマゾの宅急便だけだ。だから私は確かに解せなかったし、挨拶は空耳でなく確かに聞こえたのだ。私の懸念はいましがたの挨拶が音楽のように『空中に去って二度と取り戻せない』ことだった。まるで父親の形見が便器から下水道へ流されて取り戻せなくなるような悲喜劇ではないか?

 だがその心配は無用だった。私の杞憂はすぐさま「きみはキムか?」という声にかき消された。『キミハキムカ?』私は脳内で復唱した。「キムだな?」今度は確信にみちた声音だった。私は恐る恐る背後を振り向いた『ふりむかないで』狭い個室の仕切りの壁と便器の隙間に水洗レバーがあるのはだれもが知っている。だがだれもが知っている金属のレバーの上に、だれも見たことがない包帯ぐるぐる巻きの影法師がいたら、あなたはきっと飛び上がるだろう。私は声を上げそうになったが死ぬ気で踏ん張った。包帯をからだ中に巻いたこの人物が何者か私は知っている。『ミイラ男』そうだ、古代の遺跡のなかからひょんな拍子によみがえったあの動くミイラだ。『なぜ僕の名を……』と口にしかけて私は思わず「なぜミイラが僕の名を」と口走ってしまった。緊張はえてして混乱をきたす。このとき素人はおどろき、玄人は訝る。

「だれがミイラだ」とミイラ似の影法師は言った。「そりゃ不正確だな、私はミイラになったミイラ採りなのだ」そんな高説を聞かされても私はちっとも幸福な気持ちにならなかったし合点がゆかなかった。私は反駁した。人はときには反駁しなくてはならない。「変わらないでしょ」私は口を尖らせた。「どっちみちあなたはミイラなんだから」すると影法師は考え込むしぐさで「いや、いまのは言葉のアヤだ」と訂正した。「ミイラ採りがミイラになる。そんな故事に類縁の、故事のフリをした境涯に追い込まれて私は死んだ─⁠─⁠殺された。私はいまも昔も防腐処理を施されてはおらん。私はただの幽霊だ」トイレの幽霊は遂に正体を明かした。私は彼に怖がるタイミングをとっくに過ぎてしまっていたから『幽霊』と聞いても震え上がるフリもできなかった。

「本当に幽霊なんですかい?」私は懐疑主義者のまなざしをミイラに向けながら「幽霊よりも宇宙人のように見えますよ。包帯ぐるぐる巻きの宇宙人はちと妙だが、幽霊『幽霊と称されてきたもの』の正体は実は宇宙人だったという説もありますからな」すると自称幽霊はひどくぞんざいな口調になった。「じゃかあしい!」幽霊は包帯の下から大きな声を出して「この人でなしの悪魔め、私はお前のおかげで殺されたんだ!」

「ちょっと待って」私は初めてうろたえた。「僕はあなたを死に至らしめたつもりはないですよ。そんなヤバいことした記憶はありません。『俺はやつ(チトー)を指一本で殺せる』と豪語したジョー・スターリンなら数え切れないほど殺してるからいちいちおぼえていないかもしれないけど」すると幽霊はやるせない悲しみにみちた嘆声を洩らした。「ああ、私を殺したのはスターリンだ! 私はやつを裏切った。だがもう少しで私はこの星雲に亡命し、私の故国との通牒者を教えることをバーターにして星雲所属になれるはずだったんだ」

 

『寒い日だった。寒風が吹いては地上に落ちた木の葉を四方に散らしていた。こんな日はモグラも首をすぼめて土の下から出てこないだろう』祖父は日記に書きとめた。祖父、グランパ・キムはなにごとも仔細に書きとめる断腸亭式の習癖があった。『いやモグラはどんなときも土の下にいる。どんなときもどんな日もモグラがモグラらしくあるために─⁠─⁠』祖父はペンを持つ手を止めた。『いま家政婦がお茶を運んできた。コーヒーブレーキにしよう。私は家政婦のミタコに、コーヒーは常にホットで淹れるように指示している。ホッとするからではない。コーヒーは熱して香りを楽しむものだ。冷し珈琲など邪道だと断腸亭も書いている。私は断腸亭がフラフープをしすぎて腸捻転になり、ねじれた腸をみずから腹を切って自力でもとに戻したという伝説を本当ともそうでないとも言わないことにする(それは断腸亭の名誉のためではなく私には判断がつかないためである)』

 私の祖父グランパ・キムは初孫の私が生まれるまでグランパではなかった。その理由はカッコウがなんて鳴くかと同じようにきっとみなさんご存じだ。祖父は私が生まれる前は中年キムだった。青年キムだったときもある。その前には少年キムでもあったろう。まるきり私と一緒だから、まぎらわしさにのどの奥が痒くなってくる。祖父もまたエム78所属で、断腸亭式の日常を書き綴っているからといって帳簿係だったわけではなく私と同じすっぱいマンだった。当時のエム78は角筈よりもう少し北寄りの十二社の坂下にあった。モノクロの写真で見ると付近の神社が画の端に見切れのように映り込んでいる。

 エム78は角地に建つペンキ塗り『ペンキ塗りたて』のけばけばしい色あざやかなビルで、その外観からペンキ館と呼ばれていた。敗戦後のどさくさに星雲長官が占領軍の払下げやら焼け跡の廃材やらをかき集めて建てたと噂されているが、本当のところはわからない。建物のなかも外もあちらこちらが凸凹した奇妙な工作で増築した棟の接目の廊下は板敷きの床とむき出しのコンクリートの床と壁がごっちゃになっていた。祖父キムはこの建物の窓から十二社通りを眺めて『国敗れて山河あり』などと呟きながら目の前の道路の下に埋められたいにしえの川と低い崖を流れ落ちる滝を想って恨めしい気持ちに駆られていた。祖父はそのことを断腸亭式に書きとめている。『かつてここは道路でなく水だった。角筈の先から流れきたる水が崖から滝となって落ちるところが江戸名所図会に描かれている。この水もしたたる水の都を土の下に押し込めたのが薩長の田舎者どもで、文明とはすなわち利便のツラの皮をかぶった土ぼこりと車の騒音である。地面の下に埋められた水の恨みをどうしてくれよう。うらめしや』祖父は窓からそっと離れると執務室に戻らずに階段を下りて食堂に寄った。勤怠の自由きわまるすっぱいマンはサラリーマンのようにはできていない。食堂で海老カツ『海老のカツレツ』を注文して料理が来るまでのあいだホットコーヒーを飲んだ『ブレーキ、ブレーキ。ホッとする』

『海老カツはさいきん食した珍味で、私は海老の天ぷらのごときものを想像していたが、小海老を集めてパン粉をまぶして揚げたものであった。家康公の命を奪ったといわれる天ぷらのような海老一匹を揚げたのではないし、精進揚げのように悪い油の不味さが鼻についてオエッとなる心配もない。みごとにスマートにできている。私がこのように食べた物のことを書きとめるのはあとでまた出てくるからである。どうでもいいが食堂で働く戦争後家の緑川さんは未亡人といえどまだ参拾そこそこ、とても佳いお尻(臀部)をしている。私は彼女の尻を落ち着けるトイレの便座が羨ましい。私は海老カツを平らげると席を立ち、緑川さんに挨拶して彼女の尻を』四時だった。だから尻を触りたくなったのであろう。『なんなら私の嫁さんにならないかと口説かないでもなかった。戦地で没した夫君にいつまでも操を立てていることもなかろう。ただ私には妻と子がいるのがなんとも憫然たるありさまだ。妻子は私にとって邪魔ではないからこそ嘆かわしいのだ』祖父は記事とは裏腹に戦争未亡人のお尻のまろやかな丸みを撫でたこころよさに思わず鼻唄を歌いながら執務室へ帰った。鼻唄は次のようなものだった。

 

  メリーさんのダンゴムシ ダンゴムシ ダンゴムシ

  メリーさんのダンゴムシ まんまるね

 

 祖父が執務室に戻ると「キム、電話だぞ」とキム上司が言った─⁠─⁠祖父の上司は別の名前を持つのだろうと思えるが一般的に言っていつもキム上司だった─⁠─⁠祖父は「だれからです?」と上司にきき返した。「保健所のタチバナさんだよ」祖父は軽くうなずいて自室へ入った。職務上の込み入ったあるいはセンシティブな電話は小さな部屋でするようにしていた。ただし通話は全て録音されていた。

「はい、キムです」祖父が電話口に出ると「タチバナだ」相手は短く名乗って「松屋食堂の361支店のことだがね。先方から連絡があってね。そっちへ伺いたいとさ」祖父はそれを聞くと急にソワソワし出した。「なんですと?」絶句して二の句が継げなかった。「先方はもうそっちにレシートを送ってる。居抜きの相談だが、そっちにとっても利ざやがなけりゃ成り立たないからな。支店の先月の明細を送るとさ」祖父は変な汗が出てきて手近にあった懐紙で額を拭った。「タチバナさん、私のことは承知でしょうね?」相手はちょっと黙ってから「ああ、もちろんだよ。だが向こうが勝手に言い出したんだからな。俺には止められんよ」祖父はおでこの汗を拭いた懐紙を見つめ直して握りしめてクシャクシャになったのを再びもと通りに拡げた。「話し合いましょう。ほっといたら─⁠─⁠営業停止です。私かやつらのどっちかが中毒する」

『松屋『食堂』の丸みを帯びた尻が私の目蓋の裏にチラチラ浮かび、私は悩まされた。私は混乱していた。支店の361は三百六十一と読むのでない『それでは暗号が成立しない』縁側をお盆を提げた家政婦が通りすぎた。雨が降ってきた。出かけるべき用もないのに私は焦り始めた。こんなときはラジオから流れる『けっこうなお湿りでしょう』とか『けっこうけっこう、コケッコー!』とかのミネソタの商い唄もそらぞらしく聞こえる。『雨が大地を潤し草を木を花を育み、野は緑と深紅に染まり、緑の川は流れまろやかなる丸き尻は揺られ……』とかの朗誦の句で気持ちを落ち着かせようと努めてもたちまちのうちに壁かどこやらに忍び寄る剣呑な影法師にかき乱されてしまう。私は苛立ち、からだは瘧(おこり)のように震えた。縁側に用もなく立つと断腸亭なら庭に放尿するところだが私は「用がない!」と叫んだものだ。家政婦のミタコがおどろいて飛んできた。「どうなさったんです?」「こんちきしょう、用がない!」私は『用』を見つけるために縁側からサンダルをはいてそのまま外出した』

 祖父キムは寒い国のすっぱいマンが日本へ亡命したがっていること、十二社のエム78と通牒してすでに亡命の手筈をととのえつつあること、手筈がととのった暁には角筈の付近にあるエム78所属になること、そのために寒い国と通牒しているエム78所属のすっぱいマンを教えて(その結果は火を見るよりも明らかだが祖父キムは処刑され幽霊となり寒い国のすっぱいマンは生者のままなに食わぬ顔で坂の下のペンキ館に出入りするであろう)交代要員となることを仲間から知らされた。仲間は保健所の人でそいつはただの無辜なる保健所職員のフリをした寒い国との通牒者だった。二重すっぱいマンを日米開戦前から継続してきた祖父は、日本へ逃れようとする輩のせいでわが身が破滅に瀕していることを知り、心臓がでんぐり返りそうになった。『タアヘル・アナトミア(解体新書)には人体の中心をつかさどる器官として心臓がハート形に描かれています』

 しかし勝利の女神サモトラケのナイキは祖父に微笑み、祖父はサンダルから運動靴にはき替えておのれに勝利の軍配を振らしめた。祖父は保健所のタチバナとともに寒い国の情報部と連絡をとり、御国の父なるスターリン『ウラー、スターリン!』を裏切って亡命しようとしている情報部員がいることを伝え、寒い国からやってくるすっぱいマンを返り討ちにする作戦を念入りに立てた。寒い国のすっぱいマン、モツヤクスキーはウラジオストクから船に乗って海を渡り、新潟港に入港してエム78星雲側が用意したモーターボートに乗り換えた。ボートがつくと、頬かむりをした追いはぎみたいな人相の男が出迎えて波止場からほどからぬ場所にある旅籠屋へモツヤクスキーを案内した。頬かむりの男をてっきりエム78の一味だと思い込んだ(いや一味にはちがいないのだが)彼は、通された部屋でもつ鍋を食べ日本酒を飲んで旅の疲れを休めた。いびきをかいて眠っている寒い国のすっぱいマンを頬かむりの男が抜き足差し足忍び足で訪ね、夜闇のなかで懐中電灯の光の輪に映ったモツヤクスキーの片腕の静脈に鎮静剤がたっぷり入った注射器の針を刺し『チクッ!』多量の薬液に昏睡する彼を頭からつま先まで包帯ぐるぐる巻きにした。そして夜明けとともに船へ運んだ。その船は寒い国へ帰還する、いや地獄ゆきの船だった……

『「やれやれ」と私は頬かむりの手ぬぐいをほどいた。ミイラになったミイラ採りを故国に送還して東京の自宅に帰るまで、私は生きた心地がしなかった。一歩間違えれば私がミイラになっていたのだ。しかしまた、どうしてあの男は没薬を欲しがったのだろう? やつ(モツヤクスキー)がミイラにもミイラの墓所にも興味がないのは明らかだった。きっと日本人をナメていたのだろう。ミイラに施した防腐剤の没薬を手に入れるためにやつは危険を冒して墓所に忍び込んだ。『俺は墓荒らしじゃないからね』だが没薬を盗むのだって、立派な盗掘だ』祖父は寒い国から逃げ損ねたモツヤクスキーを悪しざまに罵って自己正当化することはしなかった。「卑劣な人間が当然の報いを受けた」くらいのセリフはだれだって考えつく。だが祖父はモツヤクスキーを罵倒しなければ、スターリンをあらためて礼賛することもなかった。それから数年してスターリンが死去すると、祖父はそれを契機に寒い国との通牒者すなわち二重すっぱいマンをやめた。祖父が寒い国との通牒を隠しおおせたのは早い段階で手を引いたおかげといえた。

 祖父はその後すっぱいマンとして冒険するのでなく恋の冒険に移行した。エム78の食堂で『尻を触った』緑川さんを彼の愛人にしてアパートメントに住まわせて密かに逢瀬を重ねていたのを家族に秘匿しつづけたのだ。その秘密は祖父が病に倒れるまで家族に知られることはなかった。

 

「というわけでモツヤクスキーさん」私は忘却の彼方のトイレで幽霊に話しかけた。もう幽霊ともミイラとも呼ばなかった。「僕はあなたを寒い国へ送り返したキムではありません。あなたが恨んでいるキムは僕の祖父です。祖父ならとっくに死にました」それを聞くと幽霊のモツヤクスキーは包帯を巻いたこうべを垂れて故郷を想うことなく破れ目からだらしなくベロリと舌を出した提灯お化けのように見え出した。「うらめしや」と彼は呟いた。「恨む相手はもういない、か。私と同じ草葉の陰の身の上か」私は幽霊が気の毒のような気がしたが、それは私のはきちがえでなおかつ彼のサンダルと靴のはきちがえであったかもしれない。私は彼に同情をかける筋合いでもなかった。ミイラになったモツヤクスキーの幽霊は次第にトイレのなかで影の色を薄くしていき、遂には消えてしまった。

 

 

    りりかるナノハ

 

 ナノハ、菜乃葉は職場の廊下にちょこなんと立っていた。私の目の前にあるものを見て私は初め人形だと思った。人形でないとしたら人形に似たニセモノにちがいなかった。背丈が少女か幼女ほどしかない女性を人形と見間違えるのはそう困難なことではない。しばらくして私は彼女をあらためて人形だと思うときがあった。だがその話はあとにしよう。

 菜乃葉はエム78所属のすっぱいマンで、身長は私の腰より少し低くてどう見ても子供のような成人女性だった。小人症という症状あるいは体質の名を私は精進揚げを食するようにおぼえた。それというのは私には小人症の小人をショウジンであるとしか受けとれなかったからだ。それは偏見であったかもしれない。予断と偏見であったかもしれない。菜乃葉は彼女が小人なのをコビトと読んでくれることには歓待のキスを浴びせたが、コドモと読まれることには激しい憎悪を抱くのだった。確かに小人にはコビトに使う以外にも用法がある『大人千円、小人無料』小人を小児のように子供のように見なされることは彼女には許しがたい侮辱と感じられたのだった。まことに人の感じ方はさまざまだ。「小人をコドモと思い込む阿呆なんて、コモドオオトカゲに喰われてしまえばいい」菜乃葉の小さな口からそんな呪詛が洩れるのを聞いて私は一寸の虫に宿る魂がこの小さい女のなかに激情に姿を変えて移り住んだものと解釈した。かくも菜乃葉は小人であるわが身に自負の念を持ち、幼児だと決めつけられることをきっぱりと拒絶していた。

 菜乃葉はどうしてすっぱいマン─⁠─⁠またはすっぱいガール、すっぱいウーマン─⁠─⁠になったのだろう? 彼女の来歴には不明なところがあった。母親は菜乃葉と同じくらいの背丈でサーカス団に所属していたことがあるという。サーカスにはピエロがいたという。この話はピエロに惹かれる私をよろこばせた。ピエロと聞くや、私はさっそく肩をすぼめて舌を出した。ところが菜乃葉自身はサーカスには関係がなく、サーカスにいたこともピエロの知り合いもいないのだった。ぬかよろこびに私はひどく落胆した。「きみがピエロと友達だったなら、僕は幸せになれたのに─⁠─⁠」私が思わず口を尖らせて言うと菜乃葉は「小人とは友達になりたくないの?」と言い返したものだ。人はときには言い返さなくてはならない。

 菜乃葉と私は友情とも愛情ともつかない心情で決して短くない期間結ばれていた。彼女はピエロが人相と芸を通じて悪魔のような悪魔がきたりて笛を吹かざるを得ないような見てくれに収まっているのを友情とも愛情ともつかない私たちの関係になぞらえた『まるで悪魔のようなメイキャップを施してるけどピエロなの。おどけてるでしょ?』私は確かにおどけ者だったかもしれない。菜乃葉と私は上司もちがえば指揮系統もちがう立場で任務に就いていた。それもまた私たちの微妙な間柄に作用していたかもしれない。

 私は角筈のエム78の建物内で東南の角に位置していたが、菜乃葉は西北の角にいた。私はよく職場を離れて隣にある図書館へぶらりと寄った。殷の時代の戦車『の(不幸にしてアルマジロならざる)馭者がまとう甲冑』について調べるためである。菜乃葉は図書館へ来たりせずに暇な時間はエム78の屋外に出て野良猫と戯れたりダンゴムシと戯れていた。戯れているときの彼女は輝いていた。彼女はよくダンゴムシを道端にまるめたものだ。『ダンゴムシをまるめる女』ところで私の任務は寒い国から入ってきたすっぱいマンに接近して国とは無関係なフリーランスの記者を装い寒い国の民の鼻から伸びた氷柱についてきき出すことだった。そのチャンスは新宿2丁目のがさつなナイトクラブで夜間に訪れた。昼間の私は調査報告書をまとめるか、廊下で菜乃葉と会ってわちゃわちゃするか、ぶらぶらするか、またはなにもしていなかった。菜乃葉はといえばアジア系の曙光についてなにかをする任務に就いていたはずだが、私は詳しく知らない。互いの任務について喋ったりきき合ったりすることをエム78は禁じていたし、禁じられた遊びほど魅力的でないからぜひとも知りたい気にさせられなかった。

 だが菜乃葉が彼女の小柄な外見に反して有能なすっぱいマンだったことは断言できる。私たちの職場では表立ってすっぱいマンに褒賞を与えたり上司が表彰することはなかったが、菜乃葉はいつの間にか彼女のセクションのサブリーダーに就任していた。ああ、なんてちっこいサブリーダーがいたものだ! 菜乃葉は昇進してからも肩で風を切って颯爽と廊下を歩いたりせず、相変わらずミロのヴィーナスの『フリ』をしたり野良猫と会話していた。彼女は猫語が喋れないし野良猫は人語が喋れない。なのに菜乃葉が好き勝手に話すうちに猫は「ニャー」とあいの手を入れるのだ。当意即妙のタイミングで菜乃葉と猫は会話を成立させていた。私はそれを眺めて菜乃葉と猫のあいだには友情があるのを直観した。友情とは菜乃葉が天気や花粉の話をすれば猫が「ニャー」と言うものなのだ。してみると私と菜乃葉のあいだには深くて昏い川が流れていなかったし、菜乃葉と猫のあいだにあるような友情というべきものもなかったのだろう。だが友情ではなくとも、私と菜乃葉はある種の抒情に包まれていた。私たちはいつも抒情的だったし、菜乃葉はリリカルだった。その証拠に彼女はよく切ない唄を口ずさんだ。

 

  モグラーヤ

  モグラーヤ

  ふりむかないで

 

『モグラですよ』ピエロは舞台の袖でたまらずに笑いを隠しながら語った。彼に語りかけられたのは動物の調教師で、ピエロの弁を聞いてムチを腰のベルトにかけたまま黙ってうなずいた。『一座にいるモグラが背の低いモグラーヤに愛の言葉を聞かせて、見返りにハシゴを手に入れたんです。なあに、そんなに高いハシゴじゃない、天まで届きゃしませんや。天幕(テントをことさらにテンマクと言いたがるのは先代の座長の口癖だったからだ)のてっぺんにだって届きません。だけれども、座員が足繁く通うどの酒場や淫売宿にもかけられるハシゴでしてね……うちの連中ときたら、飲んで酔っ払って女を抱きに行くなんざ朝めし前ですからな』

 調教師はもともとライオンやクマを調教していたが、動物保護の観点から芸を教え込むことに抑圧的な空気が流れてサーカス団はライオンとクマを手放した。調教師は仕方なくムチのサイズをうんと小さくして指先につまんで振るゴムひもに持ち替えてダンゴムシを調教することにした。調教師が指に挟んだムチを振るとダンゴムシはなにもせずにまるまった。『ダンゴムシをまるめる男』ムチを恐れる気配がない球体を眺めて調教師は仕事をあきらめ、映画館で風吹きすさぶ谷を舞台にしたダンゴムシ映画を観て帰り、サーカスを辞した。

 

 

    きみの名は

 

 祖父グランパ・キムはキツネを飼っていた。祖父の腹心の友であり、かけがえのない伴侶だった。人間がこの(オコジョやフェレットほどではないが)細長い生き物にしばしば付けがちなコン吉とかコン太とかのとんちきな名前は祖父は決して付けなかった。『キツネがコンコン鳴くものか』─⁠─⁠実をいえば『わたしゃコンコン鳴きますよ、時と場合によってはね』ずる賢いズル狐の一面を持った祖父のキツネはそう洩らすこともあるのだった─⁠─⁠生き物の特性について一家言ある祖父はキツネにモグラーヤと名づけた。あたかも名づけえぬものを名状するかのように慎重に扱った命名の儀であり、祖父はこの名『モグラーヤ』を懐紙に包んで金庫のなかにしまい込んだ。そしてふだんはキツネを「サム」という素っ気ない名前で呼んでいた。サムは名前に反して寒がりでなかったが、本当の名前がモグラーヤであることを思えばむしろ当然かもしれない。

 モグラーヤはモグラのようなもぐりっちょのような語感を秘めた名前だが、本来は女性(めす)に付けられるべき名前だった。というのはモグラーヤは寒い国の娘アグラーヤと対を成してコンビネーションを組むべき名だからだ。あの寒い国に生まれたアグラーヤが人生の阿呆といわれる公爵に恋をしたことはつとに知られている。寒い国の寒空の下で寒風に吹かれたこともない、建物のなかと馬車の屋根の下にばかり所在してドアトゥドアの暮らしに浸りつづけたこの高雅にして高慢ちきな令嬢が読んで字のごとくときおり胡座をかくとすれば、モグラーヤは布団や押入れにもぐることはあっても土の下には潜入しなかった。『わたしゃムグラモチじゃありませんからね。ヒヒヒ』厳重に秘匿された名前であるモグラーヤは祖父の意志によってキツネの彼が世を去る直前に封印を解かれるべきだとされた。いわば掟の門がだれのためにあるのかを門に入ろうとして一生入れてもらえなかった男の末期の耳にささやかれたように、死のまぎわに本当の名前が発効するように仕向けられたのだ。

 祖父の一見気まぐれな思いつきは名に関する一種の敬虔な信心に由来していた。だが祖父はその信心を家族のだれにも打ち明けなかった。ただキツネのサムには腹心の共有ゆえに告げていた。サムが陽当たりの良い出窓にとびのって両手と口を使って編物ひもで猫ならぬキツネの揺りかごに興じていると、祖父はキツネがこしらえた竹藪の一軒家の不格好さにたまりかねたように近づいた。「サム、お前の家の竹はすっくりと伸びずに曲がっているようだね」だが目の前のあやとりに祖父の意識がないのはキツネがくわえた編物ひもを見てもいないから明らかだった。「お前の名はサムではないよ」祖父はだしぬけに刃物を渡すようにサムの肝を冷やした。「わしはお前が平生から本当の名をむき出しにしてたら悪魔に魂をさらわれてしまうから隠してあるのだ」祖父の考えでは悪魔はピエロのようにおどけた顔をしていた。しかし悪魔がピエロの偽装(フリ)をしたのでなくピエロが悪魔を真似したのだ。『一見おどけ者に見えても、やつは油断ならぬ悪癖だらけのくせ者だ─⁠─⁠』祖父は悪魔についての想いに沈んだ。

 祖父は断腸亭式の日記にサムのあやとりを記した。『彼のあやつるひも遊びはへたくそすぎて絶望的だ。私は寒い国のために働いた時期に私の働きによって葬られた連中を思い出しても嬉しくも悲しくもならないが、サムのひも遊びを思い返すと泣けてくる。彼の手と指はひもをあやつるようにはできていないのだ。それでもサムは一所懸命に親の仇のようにひもをあやつろうともがいている。その光景を見ていると私は涙が出てくる。ちきしょう、これを書いているいまもまた泣けてきた。だからといってサムからひもをとりあげて二度と遊ばせないようにすることはできない。そんなことは横暴だし、まるで専制君主のやり方だ』サムは祖父が病に臥した頃もまだ時々あやとりをつづけていた。そして相変わらずへたくそだった。サムは癖で無意識にひもをとり出してあやとりをするので、上達したいとかひもで巧みな図柄を描きたいとは思っていなかった。彼にとってあやとりは『用がない』ときに『用』の代わりを果たしてくれるもので、祖父が彼のひも遊びを見てどんなに胸を痛めているのかなど知る由もなかった。

 祖父のベッドの傍らで看病するともなくあやとりに没頭しているサムに、祖父は病に蝕まれたからだを起こすことなくただ優しく話しかけた。「サム。ここは寒いよ」サムは祖父の声に気づいてあやとりを中断した。「サム、寒くないかい?」祖父は再び口をひらいた。サムは答えずに編物ひもを口にくわえたまま祖父を見上げていた。沈黙が流れた。うんともコンとも言わないサムに祖父は説諭した。「ああ、私としたことが。お前が寒いわけがあろうか。だって、お前の本当の名はモグラーヤだからな」祖父は金庫に封印してサムの死にぎわまで封を解かないつもりだった名前をもう長くないと思われた命の自分から告げてしまった。モグラーヤことキツネのサムはそれを聞いて祖父をキョトンと見つめていた。祖父はこちらへふりむきつづける腹心の友に歌い聞かせた。「モグラーヤ、ふりむかないで」

 

 

    別れの曲

 

 この哀愁と劇的な力感にみちた楽曲はフレデリック・ショパンのペンによるものではなく私の永遠の友または恋人の菜乃葉の作である。「わたしがおぼえている限り、これほど優美なメロディは書いたことがないわ」菜乃葉はそう言うのだった、確かにそれは特別な音楽だった。出会いと別れをテーマにしたものがかくも隠微におぼろげな階調をたどるとはだれしも耳にした直後は予想だにしなかっただろう。

「出会いと、別れをしたためた曲なの」サヨナラダケガ人生ダ式の別離の調べを十八番のリリシズムにのせて奏でるのが菜乃葉にとって、彼女の本分であり本領でもあったろう。『出会いと別れ』哀しい予感がしていた。いや初めからしていたのだ。それに気づいても知らんぷりしてやり過ごすのが私たちすっぱいマンの生き方で、ある意味でそれは日常茶飯事といえた。もし私たちが予感した哀しみにクモの巣にかかった獲物のように絡めとられたら、私たちはすっぱいマンとしてアルマジロにあるまじき失態を演じることになるだろう『あるいは痴態を演じることだろう、どんなに閉ざされた封印の函のなかに隠れていたとしても不可視のピーピング・トムのカメラが回っている』菜乃葉はエム78の彼女のセクションでナノハ上司に呼ばれて別室のドアへ入り込んだ。私は経験から菜乃葉が上司にしぼられて(こってりとあぶらっこく)叱責されたか、または叱咤激励されたものと思い込んだ。ダンゴムシも野良猫もきっと彼女を励ますだろう。菜乃葉が別室から出てきたとき彼女の顔色や様子は前とまるきり一緒だったから私はホッとした。この小人の女すっぱいマンが上司に叱られたくらいで夜の街灯の下で泣くような、涙がつくる虹を見上げるような弱虫ではないことに私は感激して元気づけられた。だが菜乃葉の表情はあまりにも平生と同じで強気により傷心を克服するような痕跡はどこにも見受けられないために私は彼女が上司にしぼられていたのでないかもしれないと思い出した。

「菜乃葉、上司にお説教されたかい?」私はなるべくソフトに小鳥に天気のことをたずねるようにさりげなくきいた。すると菜乃葉は「お説教?」と私にきき返した。「そう、つまり出会いがあれば別れもあるという天体の回転についてのね─⁠─⁠」私が言うと、彼女は「そんなのは釈迦に説法よ!」と答えるのだった『彼女の口ぶりは断固としてためらいなく確信にみちていた。彼女はその翌日から一週間職場を休んで角筈のエム78にしばらく姿を見せなかった。すっぱいマンが休むことは珍しくないし本当に休んでいるのでなくすっぱい活動で職場を離れていることもあるから私は不思議に思わなかったが、菜乃葉が再び出勤した日に不思議なことに彼女は私を食事に誘った。私たちは松屋の暖簾をくぐった……これは言葉のアヤだ、松屋には自動ドアがあるばかりで布製の暖簾なんかない。なんて散文的で非抒情的な入口であろう! 私は祖父のように断腸亭式に記事を書きとめている。菜乃葉とのことは松屋の牛めしのねぎだくにしたタマネギの甘い風味から思い出して回想せられるのが妥当だろう。私は牛めしを味わって食べ、隣の菜乃葉は定食を食べていた。海老を(小海老を)まとめてパン粉で揚げた食べ物をおかずにご飯と味噌汁とお新香を食すのだ。菜乃葉のからだは通常の人間の半分ほどしかないが、彼女は一人前の定食をぺろりと平らげた。満腹になり、私たちは幸福になれた。いや食事中こそが最も幸福だった。『どっちだろう?』菜乃葉は幸福を持続させるために私を酒場へ誘った。小人と巨人は手をつないで酒場へ移動した。街灯がつくるふたつの影法師が『子供と大人のように路面に映った』けれどもこれは菜乃葉に内緒だ、小人をコドモと読むと彼女は烈火のように怒り出す。

 酒場できこしめしてから私たちは当然のように連れ立って夜道を歩いた。無言のうちに私の家へ向かっていた。私たちは時計を見なかった。いつの間にか菜乃葉は私のベッドの上で一緒に寝ていた。しばらくウトウトした『トイレでウトウトしていたら─⁠─⁠

 

  トイレでウトウトしていたら

  泥棒さんに見つかって

  急いで逃げても もう遅い

  とうとうナイフで殺された』

 

 菜乃葉も私もナイフなんて剣呑なものは所持していなかったから刺したり刺されたりする心配はなかった。私が奇妙に思えたのは短いうたた寝から覚めたとき、目の前に人形が寝ていることだった。そう、私はまさにこのとき菜乃葉が人形だと思ったのだ。人形は部屋の壁に背をもたれて目をつむっていた。下半身になにも身につけていないから彼女の生殖器が少し見えていた。角度が変わればさらに見えるだろう。私は菜乃葉が眠っているとは思わなかった。なにせ人形なのだから、眠ったり起きたりするはずがない。私は目の前の人形を抱いて、抱きしめているうちに腰の下のあたりがムズムズしてきた。それからのことは難しくなかった。私は菜乃葉にそっくりな人形を自分のものにしたくてたまらなくなったから抱き合うだけでなくからだの一部分をくっつけて、こすった。人形にそんなことをするなんてどうかしてる。

 私たちが求め合うのをようやくやめたあと、ベッドに仰臥して菜乃葉は話し始めた。「わたしの母親はわたしと同じ小人の日本人で、わたしの父親は通常の背丈の寒い国の人なの。ふたりとも寒い国にいるわ。寒い国はひどく寒いから、鼻から垂れた鼻水が氷柱になってしまうのよ」それこそが私が新宿2丁目のやくざなナイトクラブで寒い国のすっぱいマンから聴き出した機密情報だった。だが菜乃葉は鼻から伸びた氷柱をみごとに折ってくれた。「わたしの父方の祖父は通常の背丈の人で、わたしは会ったことがないわ。だって、わたしが生まれる前に殺されたから」私は菜乃葉の頭をたぐり寄せた。無駄なお喋りをやめさせるのは不可能だと知っていたが。「わたしの本当の名はナノハ・モツヤクスカヤ。国籍は寒い国よ。でも22年間日本に住んでいるわ」私はうなずいて菜乃葉の頭を優しく撫でた。22は二十二(弐拾弐)と読む『それで暗号が成立する』菜乃葉は中年キムの私よりも年上の中年ナノハであったことがこれでわかった。「きみのおじいさんに会ったよ。忘却の彼方のトイレで」私はミイラのごとき幽霊を思い出して言った。「たまたま僕はきみのおじいさんに会ったけど、彼は実は孫娘の顔が見たかったんじゃないかな?」菜乃葉は鼻に生えた氷柱をふるい落とす勢いで鼻を鳴らして笑った。「わたしは祖父の幽霊に会いたくない。祖国を裏切ろうとしてしくじって始末された可哀想な人生の阿呆よ。わたしは祖父のようにしくじらない。こないだ上司に保健所のことをきかれたけど─⁠─⁠」菜乃葉は私のからだから顔を離すと私の顔に飛びついてキスした。キスしているあいだ当然ながら私たちは喋らなかった。

「もう潮どき。やれることはやったから、わたしは故郷に帰るわ」私は菜乃葉の小さな顔を両手で挟んだ。「さよなら、キム」菜乃葉は私の両手に挟まれたままそう言うともとの人形に戻って口をきかなくなった。私は再びウトウトした。私が目覚めると菜乃葉はいなくなっていた。部屋に人形に着せるような小さい服が下着まで全部脱ぎ散らかして残っていた。彼女は私が睡るまで裸だった。菜乃葉は裸のまま戸外へ出たのだろうか? それはありうることだ。私は裸身の人形の影法師を探したりせずに窓の外の朝の薄明かりを見つめていた』

 

 

    年貢を減らせ!

 

ダビデ王「きみの確定申告書に必要経費とあるが、一体なんのことかね?」

バテシバ「衣装代ですの」

ダビデ王「衣装代? きみはいつも裸じゃないか!」

 

 

    わたしもつほし

 

 わたしもつほしは私が持つ星のことであるとともにその原義は『わたしは没薬が欲しい』である。没薬を欲しがったがために身の破滅を招いた寒い国のすっぱいマン、モツヤクスキーは没薬を狙うミイラ採りがミイラになるのでなく寒い国の松屋食堂に寄った。幽霊が実体を得てよみがえったのか? いやこの一場は彼がミイラ採りを志す前の時空なのだ。

 松屋食堂は寒い国にあって廉価に食事を提供するほどほどに良好なる食堂といえた。のちに殺人を犯す貧乏学生が犯行前に立ち寄った料理屋のように得体の知れない肉を詰めたピロシキ『クマの手やゾウの鼻を詰めたピロシキだったら満漢全席になり、動物保護の観点を無視した古き懐かしきサーカスにピエロ(悪魔似の)も笑うであろう』を出したりしないかわりに紳士淑女が手に手をとって『酒と悪魔が手に手をとって』晩餐に訪れる三ツ星レストランでもない。モツヤクスキーは食堂の壁際にホウキのように突っ立っている女店員に料理を注文すると、それが出てくるまでのあいだにここに来る道すがら考えていたことを断腸亭式に手帳に書きとめた。

『361のセクションで机にかじりついて計算器とペンをかわるがわる持ち替えているあの曲芸師、すっぱいマンのツラの皮をかぶったサーカス芸人はいつも仕事で手が離せないのだと宣う。『『耳の孔が痒いな』と思ってもそのとき手が離せないと耳が掻けない。しばらくして手が空いたからおもむろに綿棒をとって耳の孔に挿れたときにはもう痒くなくなっているというぶざまさでして』こんな阿呆な感じのやつに限って一年でセクションの主任級に昇進しているから侮れない。やつが上司のゴマをするところもわざとらしく声高に「ウラー、スターリン!」を叫ぶところも見ないからうわべの偽装(フリ)で上層部に見込まれたわけではないにちがいない─⁠─⁠だからといってやつは冒険をめったにすまい─⁠─⁠どちらかといえば小心翼々な下級官吏みたいだ。却ってその冒険心の乏しさが上役に気に入られたのかもしれない。ミイラの没薬を狙うミイラ採りのようなヤバいことをしでかさない(すっぱいマンはみなヤバいことをしているくせに)ふうに見受けられて安心させるのだろう。とんだズル狐だ。あるいは私はやつを見習うべきだろうか? 息子も生まれたし、私には守るべき家族がいるのだ』

 女店員が料理を運んできた。モツヤクスキーは皿にのった揚げ物を目にして初めはピロシキかと思い、すぐに別の食べ物だと了解した。半切りのパンとパンのあいだに海老カツを挟んだ『海老バーガー』一種のサンドイッチだった。

『私は目の前に供せられた珍物を見てこれは世にも奇妙な物語ではないかと錯覚した。ピロシキのように揚げたパン生地と詰めたものが一体になった一体感が海老バーガーにはなく、雑然と上下のパンに揚げ物が挟まれていた。このような可分離的物体を前にしてどのようにナイフ(刃物)とフォーク(肉叉)をあやつればよいのであろうか? 私はしばらく黙って考えた。道具を使わずに「全体を両手でつかんで野性味たっぷりに野獣のごとく口に入れてかじる」ことは想像できたけれども、そんな野蛮な食べ方はすっぱいマンにあるまじき痴態のように思われた。断っておくが、私のなかに内在するスノビズムが発動してお上品ぶった貴顕紳士の偽装(フリ)をさせたのではない。私はお菓子の包装のなかにチョコとともに入れられたおまけのシール欲しさにチョコを食わずにすっぱいマンチョコを買い集める愚かしさとは無縁なのだ……』

 思案の末、モツヤクスキーはナイフとフォークを使っていちばん上にのっているパンを皿の端にどかす『冒険』に踏み切った。するとソースにまみれた揚げ物が姿を現した。この時点で彼は自分がしたことがタアヘル・アナトミア(解体新書)の人体解剖図に見え出していた。海老バーガーを両手でつかんでワイルドにかじる行為がはしたない食べ方でなくむしろ理に適ったやり方であることも直観せられたのだが、一度分離してしまったものをもとに戻すのはおこがましい思念に囚われていた。人体の解剖だと気づかずにメスを入れてぺろりと皮膚をめくってしまった者が続行を中断するのはよろしくない。モツヤクスキーは小海老を集めてパン粉をまぶして揚げた海老カツをフォークの先で突いて皿の手前に移した。かくて二個のパンと海老カツは分離されて各自の持ち場に就いた。モツヤクスキーは懐中からおもむろに片眼鏡『物狂う、物狂おしきモノクル』をとり出すとフリッツ・ラング式に視力の衰えた左眼の眼窩にはめた。しかるのちにナイフとフォークを巧みにあやつりパン、海老カツ、またパンとかわるがわる切り分けてつど口に運び、食し終えたのであった。『ふん、なんだかんだいって平らげちまった!』

 モツヤクスキーは片眼鏡を外してポケットにしまうと松屋食堂を出た。満腹かそれに近い胃袋を抱えながら道を歩いて今後の身のフリ方を考えた。『いつまでも寒い国とスターリンに仕えているべきだろうか? 合衆国ファンクラブ会員の偽装(フリ)をして渡米してそのまま亡命しようか。いやしかしハンバーガーを食べる国でさっきみたいな『冒険』をしたらヤンキーの顰蹙を買いそうだ。いっそのこと、日本国ファンクラブ会員ナンバー361になって日本国情報部と取引でもするか。それも悪くない』モツヤクスキーのポケットには片眼鏡のほかに寒い国と通牒している日本のエム78星雲所属すっぱいマンのメモがキリル文字でしたためられ、その文字列を発音すると明瞭に「キム」となるのだった。

 

 

    中年キム

 

 朝。私は角筈のエム78へ出勤するために家を出た。上司に遅刻をなじられないために早めに出たつもりだったが、九時をとうにすぎていた。私は角筈の建物に入るとまず真っ先に地下にある『忘却の彼方の』トイレへ向かった。朝食後の便意を催していたからだ。

 おどろくべきことに、地下の忘却の彼方へとつづく廊下で私は掃除のおばさんとすれちがった。『してみると忘却の彼方ではなくなっていたのか!』私は掃除のおばさんの姿を見てトイレでミイラになったミイラ採りの幽霊を見たときよりも呆然とした。もう少しで呆然自失するところだった。トイレに入ると確かに掃除されてきれいになったような気がしなくもなかったが、掃除する前のままのようでもあった。あのおばさんは掃除するフリをしているだけかもしれない。もしそうだとしたら、この職場のトイレは一度も掃除したことがないことになる。私は確固たる事実をつかみかねて蹌踉と個室の便器に近づいた。前に幽霊が現れた個室だった。馬蹄のかたちをした便座にお尻をかけようとすると『よく来たな』という歓待のセリフがハッキリ聞こえた。『まあ座れ』

 私は背後にある私の背中と個室の壁に挟まれた狭い空間を振り向いて「モツヤクスキーさん?」と思わずきいた。だが返事はなかった。してみると今度こそ私のお尻の下に下敷きになった便器が言ったのだろう。私は象牙色の便器のなかにブリブリと軽妙洒脱なる音を響かせて排泄物を落としながら便器にたずねた。「あなたはここでずっと僕が来るのを待っていてくれてたんですね?」しばらく間があった。便器はなんて答えるか考えているらしかった。あるいは考えるフリをしているらしかった。私は考えているように見せかけるために便座にかけた体勢のままで考える人に見えるポーズを考え、その結果ロダンの彫刻のようにあごを手首にのせて考えるフリをした。「キムさん」便器はなぜか私の名を知っていた。「わたしは公爵様もお座りになった便器です」「公爵様?」耳慣れない語を聞いて私はきき返した。「そうです、わたしは寒い国から移送されたのです。公爵様は大したお方です。なにせ、寒風に吹かれたことなき将軍家のアグラーヤさんに惚れられたお方ですから─⁠─⁠」私はそれを聞いて『なるほど、公爵とはあの人生の阿呆か』と得心した。

 トイレを出て階段を上がり執務室に顔を出すと私の上司、キム上司はいなかった。同僚のひとりが私の上司は医務室だと教えてくれた。『医務室?』学校の保健室に当たる部屋がすなわちエム78の医務室だ。白い清潔なシーツを敷いた寝台があり、健康体の人間が寝られるようにできていた。しかし医務室の寝台に寝ているのは概してあまり健康ならざる体調の人間と相場が決まっていた。私が医務室のドアからなかに入ると、白い寝台の上に私の上司が寝ていた。

「キムか?」上司は言った。「キムです」私は答えた。「当たり前のように言いやがったな」上司の口調にはお説教(こってりとしぼられる時間)に及びそうな、おもしろくてためになるお話を説諭しそうな気配が感じられたため、私はひかりのくにから来た男が構える戦闘のポーズをとって迫りくる攻撃に対処した。だが上司は案に反して元気がなかった。私はこんなに元気が喪われた上司は初めて見た。「だれもがだれかになにかものを言う世の中です。僕の遅刻を非難なさるのなら─⁠─⁠」私が言いかけると上司は遮って「キム。きみは菜乃葉が寒い国からやってきたことを知っていたな?」と思いがけないことをきいた。

 私は黙ってうなずいた。いまさら取り繕う必要もない。上司は仰臥しながら私を見上げた。顔色が衰弱と疲弊を物語っていた。『世にも奇妙な物語だ』「菜乃葉は行方不明だ。空港に手配を入れたが手遅れだろう」上司は言った。「そう思います」上司はじろりと私を見て「まさか、菜乃葉に仲間として情をかけたんじゃあるまいな?」私は肩をすぼめ、ピエロのように舌を出した。「僕を見くびってもらっちゃいけませんや。そんなふつうのすっぱいマンみたいなこと、するもんですか」するとキム上司は寝台の上に寝ながら両手を胸の上で組み合わせた。「菜乃葉の一件で私は更迭されそうだ」

『キム上司、モウヤメレ』私は上司を見下ろして宣告した、宣告したい気持ちだった。『オマエハ限界ダ』上司は目をつむって睡るようにグッタリした。まるで鎮静剤を射たれたミイラのように寝台に横たわり動きもしなければ口もきかない上司を尻目に医務室を出た。私はそのまま廊下を出てエム78の建物を出て建物の裏手にぐるりと回って野良猫とダンゴムシに『菜乃葉の分まで』挨拶した。野良猫は「ニャー」と言ってダンゴムシはまるまった『ダンゴムシをまるめる男』私は星雲を辞していままさにすっぱいマンからピエロに変わろうとしているのだった。『悪魔に似てますがね、悪魔に似せ(フリ)てるだけですよ』十二社通りを渡ると中央公園のなかに特設したテント小屋が待ち受けていた。布製の扉をめくってテントのなかに入ると、サーカスの座員たちが一斉に私を迎えて拍手した。そのなかにはだれあろう、子供の背丈の菜乃葉がいた。「キム、また会えたね!」私は菜乃葉の手をつかんで彼女を抱きしめた。「僕らがこんなに近くに逃げてるなんてだれも思わないね」私は菜乃葉に言って「でも、時間の問題じゃないのかな?」すると菜乃葉は私の手から離れてすっくりと立ち、テントの外を指さした。「心配ないよ。もう幕だから」私が布製の扉をめくって外を覗くと、上から幕がスルスルと静かに下りてくるのだった。

 

 

 

                         完

 

 

 

 

 

 

個人的なお願い

 

 

 

 

 これは文芸や僕の関心事とは無関係な個人的な事情についての表明です。

 

 今年になって、よく行く東京都内のレストランに僕がついた席の近くに見知らぬ人がいて、確実なことはむろん聞いたわけではないのでわかりませんが、僕になにか話しかけられるのを待っているかのような、そんな様子で飲食するところを幾度か見かけるようになりました。臆測通り、その人たちが僕に近づくために同じレストランに張り込んで待ち伏せをされているのだとすれば、だれか店のほかのお客さんと話がしたくて通っているのでない僕にとって、少々傍迷惑なご期待を持たれていることになります。

 全く本心から言うのですが、僕はレストランに食事をしに行っているのです。さらに飲食のあいだに考え事をしているのが僕の無上の愉しみであり、ほかのお客さんと社交がしたくて通っているわけではありません。第一、僕が通うレストランはふつうの食事をする店であり、少数の常連客同士がコミュニティをつくって歓談するような酒場ではないのです。

 僕はいまでも居酒屋に行きますが、週一日くらい行くとしてもその店の常連さんと仲良くしたりお店の店員さんと和気あいあい喋るような親和的な付き合いはしていません。僕はどこでもむっつりと黙り込んで、自分の考えに没頭するか店のテレビを漫然と眺めています。

 レストランに現れた人たちは全く面識のない人たちです。彼らはどういうわけか僕の顔を知っているらしい気配を見せていました。理由はわかりません。僕は先方の人たちと会ったことがなく、なかには『あの人かもしれないな』と推測できる人もいましたが、確証はありません。有名な人が混じっている可能性もありますが、なにしろお目にかかったことがないので、明確に判断できないのです。もしかしたら昔の勤め先の同僚かもしれないと思っていろいろと記憶を探ることもあるのですが、ここ数週間にレストランにお見かけした人たちはどう考えても昔の知人ではない。つまり今まで僕が知り合う機会がなかった人たちということです。

 公共の場で面識のない人たちに僕の方から話しかけて知己を得ることは致しません。先方から僕に話しかけてくるなら別ですが、みなさんどういうわけか、それはなさらない。ですから余計に不可解なのです。

 もしも今後、なんらかの理由により僕と交友を結びたいとお思いになるのでしたら、そのような希望に応えるつもりがないほど僕は冷淡なやつではありません。ただし、その旨を僕にハッキリと申し出ていただきたいと思います。ミクシィからメッセージをくださればお返事致します。その上でレストランなりどこなりでお会いしてお話するのは構わないのです。ご自身の正体をちゃんと明かしていただいて、どなたからのお申し出なのかを承知した上でしたら、無視するような失礼は致しません。

 そのような段取りを踏むのが果たして面倒でしょうか? そんなことさえしたくないほど、僕はナメられているのでしょうか? ふつうの社会人ならまずアポイントメントをとりつけた上で相手と面会するものだと僕は思っておりますが、いかがでしょうか? 僕の見解がおかしくて、名乗りもせずに近づきたがる方が正しいのでしょうか? よくお考えになっていただきたいと思います。

 

                 ぜんまいどむらいより

 

 

 

 

 

共感の地平

 

 

 

 小学校の頃から小説を書いているが、あまり自分自身に執着しない性格のせいか「私はこう思った」「これが俺の思いのありったけだ」みたいな自己の思念の表明に興味がない。ジャンルとしての私小説はもはや伝統工芸的に存続しているだけだろうけど、そうでない様式に則っても僕には作品のなかにぶちまける自分の気持ち、世間の多数派の人たちに共感されうる心情みたいなものがないのだ。

 今日でも世間で小説を書く人のなかには小説に自分の思いを表明したがる書き手が少なくないようである。だが作品に表象された思念は必ずしも作者の思念ではなくて、特定の人物の思念に作者自身の思念と重なる部分があると感じられることがその種の読み物の要件なのだと思える。つまりフィクションであっても表象された思念に説得力があればその作品は多数の読者の共感を喚ぶのだ。J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』などはそのようにして受容されてきたと言えるであろう。

 僕は現代の日本社会は日本の古代社会にあった制度と慣習をなしくずしに、とはいえきわめて強固に引きずっていると確信できる。古代からの社会慣習が近代へ至るにつれて矛盾と軋みを帯びて、その矛盾と軋みから生じた個人の心情吐露を散文のテキストに定着させたものを明治期に成立した自然主義─⁠─⁠いわゆる純文学─⁠─⁠と呼ぶのだとすれば、僕は小説のなかに吐露するに足るほどの心情を抱いたことがない。誤解しないでもらいたいが、もちろん僕だって世間で生きていく上で落胆することや腹立たしい思いには幾度となく捉えられている。これからも生きている限り悲しいことやガッカリすることは避けられないであろう。それについて達観しているわけでは全くないから、今後もそんな目に遭えば落ち込んでしょんぼりするにちがいない。

 だが小説に自分の思念を表明するという営みは世間によくある不運や不幸を描くことではない。純文学小説に描かれたモチーフはむしろふつうの意味では「これって、不幸なのかな?」と首をかしげる体のものである。しがない小説家が自家に住み込みで小説の書き方を習いに来ていた女弟子に惚れて恋人になろうと目論んだところ女弟子に逃げられてしまった経緯を赤裸々に綴ったものが純文学であって、僕など「若い子に逃げられて残念系でしたベラマッチャ」くらいの言葉しか田山花袋にかけられないが、作者にとっては「これが現実なんだ!」と大言壮語するほどに切実なことなのである。

 客観的に見れば作家が好きな女弟子に逃げられたことは悲喜劇というか喜劇にしか見えない出来事である。笑うしかない。しかし田山花袋にとっては、悲喜劇なのは承知だけれど女弟子に未練があるあいだはやはり悲しくてやり切れないことだろうし、未練を断ち切ったあとでも「あのときの気持ちは真実のものだった」と言えることなのだ。その確信の背景には共感の共同体とでもいうべき近代日本社会の奇妙な心情的連帯が作用している。

 明治後期の自然主義文学の担い手たちは義務教育など近代日本国家の社会制度を経験して育ち、戦争の勝利によって日本が先進国の仲間入りを果たしたと思われた時代に同じような成長過程を踏んで大人になった日本国民に共感を持たれる読み物を提供するという目標で国民国家の文芸を模索していた。女弟子に逃げられた作家は社会のなかでは少数派に類するようでも、好きな人を繋ぎ留めようと努力してその甲斐なくフラレて悲しむことじたいはふつうに共感されうるモチーフである。自然主義作家は世間の人の共感の地平に訴えることを命題としたのであり、その目標をどうやら達成できたと実感できた時点で自然主義文学つまり純文学の勝利が高らかに宣言されたのだ。昨今の純文学も基本的に明治の自然主義が確立したベクトルから脱していない。小説から共感の地平を取り払ったら若手作家も含めて現在の大半の純文学作家が書けなくなるに決まっている。僕は天邪鬼やひねくれものだからではなく、社会的な共感なんて上っ面のものでしかないと思うから純文学を書く気がしないのである。

 

 

 

 

 

 

世界はスプーンのひとすくい

 

 

 

 小説はいかなる成分によってできているのだろうか。描写と説明と会話文、その他の書式によってなどという機能する形式の種類の話ではない。小説を成り立たしめる要素は実は見かけよりもずっと単純なものではなかろうかと思うのである。例えばしかじかの犯罪を題材にして小説を書いた作家がいるとする。その作家は題材について「人間の本質にかかわる事件だなと直感したからです」などともっともらしくコメントするかもしれない。だが題材それじたいが小説をつくり出すのでないことは、経験を積んだ書き手ならみな知っていることである。

 当たり前だが小説と物語はイコールではない。物語がまずあって作中の各場面やエピソードが存在するのではなく、テキストのなかに場面やエピソードがあり、それらを読んでいくことで全部を鳥瞰した結果として読む者の頭のなかに物語の像を結ばせるのだ。だから物語なんてあってないようなもの、いわば本体の影のようなものである。さらに言うと、各場面やエピソードもあらかじめまとまったものとして存在するのではない。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』がそうであるように場面やエピソードはそれ以外の記述と混ぜ合わさりながら語りの持続のなかに不意に顔を覗かせる。従って場面やエピソードはそれらを構成するフレーズによるディテールから出来ているのであり、このディテールこそが小説のベースにあるのだ。

 ディテールを連ねてつみかさねてゆくこと、それが小説の骨子である。大部な長編小説であってもそれは一緒だ。中上健次がおそらく若い頃に書いたであろう掌編小説、公園における男女がお互いの心理を言い合うだけの奇妙なきわめて短い作品─⁠─⁠僕はこの掌編のタイトルを憶えていない。調べればわかるだろうが中上全集を確認しておらず、タイトルは不明である─⁠─⁠が長編『枯木灘』や『鳳仙花』の世界を予感させるのは、このほんのわずかな一場面のカットに小説のデタラメさが凝縮して表れているためなのだ。僕は高校生のときに中上健次の死後に相次いで出た文芸誌各誌の中上健次追悼特集号を書店で立読みしていて、生前単行本未収録のものとして掲載されたくだんの掌編を見つけてからだが震えた。反射的に笑ってしまうほどの衝撃を受けたことを今でもまざまざと思い出せる。笑いながら思ったのは「これが書ける人なら『枯木灘』は書けるよ」ということであった。その掌編を読んでも後年の中上健次らしからぬ他愛もない話を勢いで書いただけの初期の習作にすぎないと思う人はいるだろう。この話のどこに紀州と路地の、一族の血縁と因縁の交錯する世界へと発展する要素があるのかと首をかしげる人は少なくないかもしれない。

 その掌編は公園における男女の口論に近い興奮したやりとりを描いたものである。会話の内容はおそらく彼らの恋愛に関わるものだろうが、ふたりとも相手の心中を慮りながら自分が悪いのだと主張し合う。口論に近いが、別に喧嘩しているわけではなく伝えたい思いが堰を切って溢れるようにセリフを言い合うシチュエーションであり、唐突に場面に入るから街なかで変な会話を交わす人たちをたまたま見かけたような気分にさせられる。ちょっとドストエフスキーの『白夜』を想わせるところがなくもない。小説にこのようなくだりを入れる場合はふつうは前後の文脈をこしらえて経緯をきちんと提示した上で出すが、中上はこの掌編にほとんど上記の場面しか書いていない。なんだこりゃ、と思いながら僕は書きたいところをぶっきらぼうに書いてしまった中上の腕力に呆然とさせられた。だれがなんと言おうと僕は自信を持って言い切れる─⁠─⁠これこそが小説なのだ! ─⁠─⁠もちろん、くだんの掌編が傑作に類するわけではない。傑作でないとしても中上健次の仕事のなかでかなり重要なもののひとつに数えてよいと確信できるが、僕が驚嘆したのはたったこれだけの場面しか描いていないごく短いものがフィクションの核心を突く表現になり得ているからなのだ。

 中上の掌編小説は彼の文体と世界観のベースがどんなものなのかを端的に暗示している。つまりこの掌編は中上健次の仕事の秘密を解く鍵というべき作品であり、中上が彼の世界観を表すのにほんのささやかな掌編で事足りたことをほのめかしているのだ。中上が最初に小説家としての個性をハッキリと打ち出した記念すべき作品はやはり「一番はじめの出来事」だろうけれど、彼が小説家以外のなにものでもないと言えるのは一篇を読み始めたときに「この人、なにがやりたいんだろう?」と不可思議な気持ちにさせられるテキストを躊躇せずに投げ出して平然としているからなのだ。タイトルを記せないのがもどかしいくだんの掌編も奇妙な会話の場面をいきなり出してそれだけで終わってしまう。僕はその掌編の会話文が中上の小説を組織する最小の単位であろうと推測するのである。

 もちろん中上には生涯を通じて飽くことなく繰り返した「空が青かった」のようにポンと置かれて抒情を醸す簡潔なフレーズもあるし、言葉をたくさん持っていた人にはちがいない。だが彼の作品世界の根幹となるものはごく短く単純な会話だったり、最晩年の短編「青の朝顔」のラストの秋幸と彼の姉妹たちが歩いて移動していくだけのくだりだろうと思える。書き手は表現をつみかさねて長い作品を書いていくが、基本となる成分はごくささやかなフレーズなのだ。語彙がどれだけ豊かな書き手でもそれは一緒だと思う。小さなディテールだけでフィクションらしさを発動させられるか否かが優れた書き手の条件だと言ってもよい。僕は掌編やショートショートが小説の形態として本質的だなどと言っているのではない。どんなに長大な作品を書く作家であっても小説を成り立たしめるのはおもしろいディテールであり、そういうディテールが書ける人がおもしろい小説を書くのだ。

 プルーストが圧倒的な筆力を持っていたのは『失われた時を求めて』のどのくだり、どの記述の細部を読んでも興味深いことばかりがぎっしりと並んでいるからである。彼は自作の『失われた時』について友人宛の書簡に「千夜一夜物語のように長いもの」だと譬えている─⁠─⁠だが千夜一夜物語がもっぱら話の内容の興趣が主眼の読み物であるのと比べるなら『失われた時』には物語内容のおもしろさは消極的にしかない─⁠─⁠『失われた時』は物語よりも記述の逐一が充実しておもしろい作品なのであり、筋書きに意識を向けてもビルドゥングスロマンか回想録のニセモノのようなプロットしかない。ところがこの本を読んでいくとテキストがこの世に存在するあらゆる物事を解き明かしていると感じるのだ。いわば「ここには全てのことが書いてある!」と思わされるので、プルーストがこれをやってしまったあとでなにを書けばいいのだろうかと途方に暮れる思いに捉えられる。全てが書いてあると感じるのは例えば第一巻『スワン家のほうへ』の「コンブレー」の出だしを読むだけでも、就眠とそれに付随する事柄についてこれほど想念を膨らまして徹底的に記述した書物はプルースト以前にはなかったと言えるので、我々が生きているなかで感覚する全てのことを語っていると思わずにはいられないのだ。プルーストの世界観はそのベクトルに向かってやり尽くすことに発揮された─⁠─⁠あとから来たものになにができるというのだろう? ─⁠─⁠そう思ってしまうほどに『失われた時』はとてつもない小説なのだ。

 以上のごとく僕は中上健次プルーストも好きだし、彼らを尊敬している。ところが拙作はプルーストや中上とは似ても似つかない下らないコメディなのだ。まあ彼らの小説に似せようとしたことは一度もないし、自作を彼らの影響を受けた作風にすることは十代のうちに早々とあきらめたから似ていないのは当然かもしれないが、作風は異なるとしても「ちょっとだけ似せよう」と目論んだことさえない。今後もきっとそうだろう─⁠─⁠「ちょっとだけ似せよう」というのは例えば保坂和志のある種の小説が内省的な語りと認識論を想わせる内容によってプルーストをやや敷衍するかのような態度を示すことを指す─⁠─⁠言うまでもなくプルーストのおもしろさに及ぶべくもないが─⁠─⁠だから僕は中上健次プルーストについて語ることはできても、自分自身の創作と重なるものとして語ることはできない。もし重なる要素があるとすればディテールから作品ができているという小説全般に当てはまることでしかない。日本の文芸界隈には慣例として「小説家は他の小説家について我が事のように語るべきだ」という暗黙裡のルールがまかり通っているような気がしている。しかし僕にはプルーストと中上を我が事として語る資格はない。まあだれについてもないのだけれど。

 小説の世界はディテールを基本の成分としてできている。今回僕が言いたいことのメインはそれである。小説のディテールは言葉のフレーズの組み合わせでできている。作中の全部のディテールをおもしろくしなければおもしろい小説にはならない。序盤のくだりはイマイチだけど、中盤から良くなっていくからこれでいいでしょう、などという了見では到底本当におもしろい小説はできない。冒頭から結末まで全部がおもしろくなければいけないのだ。白状すると僕が真剣にそのことを肝に銘じて創作に臨んだのは昨年の夏に書いた短編「怪盗マルガリータ」からであり、直近の拙作「りかちゃんとやってる」を含めてたったの四作しかそのスタンスによってなし得ていない。僕は疑う余地のない本物のナマケモノであり、頭ではわかっていてもめんどくさいからちゃんとした作品を書こうとして来なかったのだ。拙作はいまだに非商業作品だけど、昨夏の「マルガリータ」以降の短編小説はどれも商品として流通しうるものを生産する覚悟で書いたものである。つまり近作四篇こそがディテールから一篇の全部をおもしろくすることができた小説であり、とりわけ「りかちゃんとやってる」は小学生のギャグ─⁠─⁠実際に僕自身が小学校で同級生にニヤニヤしながら言っていた─⁠─⁠に等しい下らないタイトルだが、この短編を書くために要した苦心は僕の企図を成功へと導いてくれたようである。僕にとって「りかちゃん」はひとつのマイルストーンである。これを目印にして今後も短編を書いていくし、懸案の長編もここに試みたことを踏まえて書き継がれていくことになる。もちろん短編には短編の、長編には長編の形式があるから「りかちゃん」と同じやり方はとらないが。

 ちなみに長編小説について、単純に短編を連ねていったものだと捉えてしまうと本当の意味での長編にはなりがたいことを指摘しておく─⁠─⁠ある文芸誌で短編をつないでいけば長編になるだろうとコメントしていた作家がいて、僕はそれを読んで「……え?」と絶句させられた─⁠─⁠エミリー・ブロンテの『嵐が丘』やロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』を短編を並べただけの連作短編だと思う人はいないだろう。短編を数珠つなぎにしていけば長編になるだろうなどとのたまう人は長編を単に長い小説だと勘違いしている可能性がある。あるいは単なる無責任な放談であろう。長編小説は短編を連結して成り立つものでは断じてない。長編は短編小説を多数内包したエピソード集ではない。長編もやはりディテールのつみかさねによってできているのであり、長編の作品世界は我々のこの世界を模倣したニセモノだが、その世界を構成するベースは小さなスプーンのひとすくいほどの細片なのだ。

 フランツ・カフカは長編作家ではないが、小説がディテールからできていることはよく知っていた─⁠─⁠カフカの作品は固定の光源から照射された世界だから彼の資質が長編向きでなかっただけである─⁠─⁠しかし今は長編について力説すべきところではない。僕は世間のあらゆる書き手に小説がディテールからできていることを改めて意識してもらえたらと思うばかりである。小説のディテールはエピソードを成すものとは限らない。むしろエピソードはそれとは一見無関係なフレーズから思いがけないタイミングで姿を現すものなのだ。しかし誤解してもらっては困る。僕はディテールから組み立てていくことを入念にして精巧な神経をすり減らす建築作業のようなものだと言っているのではない。その逆で、小説のディテールを書いていくことはかなりいい加減でデタラメなものなのだ。小説はデタラメな読み物だから人に読まれるのであって、仕事に疲れた人の頭を解放してあげるものでなければならない。世の小説家諸氏にはまじめになるのでなく、もっともっとデタラメになって欲しいものである。

 

 

 

 

 

おもしろくて、ためにならない

 

 

 

 こないだの拙稿「りかちゃんとやってる」の制作中に書き貯めたフレーズのメモを見返したら、本編に使えなかったものが幾つかあった。使えずにそのままになるメモは毎回必ずある。今回使いそびれたメモは文脈をこじつければ入れられないことはなかったけれど、入れたらその情報を消化するために一篇が長くなってしまう。短編の限界を超える長さにするのは僕の本意ではなかったので「りかちゃん」からは割愛した。今後、長編小説か別の短編に使うかもしれないが、どうなるかは未知数である。

「りかちゃん」は物語内容を抽出したらかなり単純なベタな話であり、子供向けとは言えないが童話のような筋書きだと思う。それは僕の場合自ずとそうなってしまうので、童話に類する作品を書きたいと望んだことは一度もない。白状すると、「りかちゃん」終盤の死神祭りのくだりはセルゲイ・エイゼンシュテインの映画『メキシコ万歳』の死者の日の奇祭やエクトル・ベルリオーズの『幻想交響曲』の終楽章「サバトの夜」みたいに、奇怪な情景を次から次へと連ねたコミカルでキッチュな本格的なお祭り騒ぎにしようかと思っていたのである。エイゼンシュテインの『メキシコ万歳』は地中にからだを埋めた囚人の頭部を馬に蹴らせて処刑するエピソードが有名だけど、ラストの死者の日もなかなか良い。ただ、拙作「りかちゃん」の終盤にその種の忌まわしい祭りの大盛り上がりを入れてしまうともはや短編とは言いがたく、中編の構造になってしまう。しかもそれまでに書いたくだりとの有機的な調和が失われる。奇妙奇天烈なカオス状態を描くには相応の長い持続が必要で、ゲーテの『ファウスト』が大部な叙事詩なのはさもありなんなのだ。ベルリオーズの『幻想交響曲』も全部が妙ちきりんな楽想にみたされた楽曲だからサバトの夜の夢幻をやれたと言える。

 僕はベルリオーズやヒエロニムス・ボスの『悦楽の園』などのバロック的な様式感の作品を書いてみたいと二〇代の頃から考えているのだが、果たせずにいる。もしかしたら僕の資質には不可能なことかもしれない。ひとりの書き手にできないことはいくらでもあるわけで、拙作は既存のフィクションにある数多くの要素を取り払って一定のベクトルを向いたごく単純なものだけ残した世界観なのだ。「りかちゃん」の終盤には変な人物が変なことを言うくだりは色々と入れたが、バロックふうの際限のない膨張や形式の破壊とは程遠い。僕が星新一の影響から出発した書き手だからか、それとも画家アンリ・ルソーがそうだったように元からそれにそぐわない資質なのか。ボスの『悦楽の園』は衆目一致する奇想の絵画の代表だろうけど、あの絵の発想は自分にないと言うしかない。拙作はどんな題材と内容を扱っても本当にどぎついグロテスクな読み物にはならなくて、どこか読む人がホッとする要素があるようなのだ。拙作は過激さよりも子供っぽいユーモアを主旨とする作風なのだろう。

 今述べたような妄想は原稿に着手する前に思い浮かべていたことで、執筆を始めたらそんな妄想は吹き飛んでしまう。というか、関係がなくなる。書く前になにを考えていたとしても実際に書ける文章は限られているのだから。小説は言葉で書くものであって、考えで書くものではない。かつて詩人ステファヌ・マラルメに画家のドガだという説もある友人が「私も詩を書こうと思っているんだ。考えはあるんだが……」と話したら、マラルメは「詩は考えで書くのではなく、言葉で書くのですよ」とそっけなく答えたという。小説は詩とは言葉の組織がちがうけれど、小説もやはり言葉で書くものである。考えをどれだけ膨らましても考えが小説になるのではない。設定やプロットは山のように考えつくが、文章を書いていくのが苦手だという人は小説に向いていない。カズオ・イシグロは今の若い人のなかに作家志望者は少なくないが、机にかじりついてずっと小説を書き続ける仕事に耐えられる人がどれほどいるだろうかとコメントしていた。まことに小説を書くことは労働なのだ。その業務内容は言葉を書き継ぐことである。キャラクター設定がいくら得意でもおもしろい文章が書けないと小説にならない。その意味では小説にとって設定やプロットは言葉に従属するものにほかならない。言葉こそが小説の専制君主であり、内容はその忠実なる臣民なのだ。優れた小説の内容が君主である言葉に逆らうことなどあり得ない。

 こないだの拙作「りかちゃんとやってる」はほとんど言葉だけでできているような代物で、近作の「もんもんバラエティ」や「夏目冬彦」と比べても言葉から組み立てて作品を創る営為を極端に推し進めたものといえる。これ以上やったら小説ではなくなってしまう恐れがある。僕はジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は小説とはいえず、散文詩の変種だと思っている。『フィネガン』を作家のオナニーだと非難する人もいるようだが、オナニーでないとしてもべらぼうに長大な散文詩的書物を小説家がわざわざ著さなくてもよさそうなものである。小説は娯楽なので、拙作「りかちゃん」に試みたような作法をとる場合であっても読む人に話の内容がちゃんとわかるようになっていないといけない。以前から言ってきたことの繰り返しになるが、僕の創作のスタンスは基本的に商業映画のそれに近い。世間の人に娯楽を提供するつもりで小説を書いているので、前衛文学や芸術作品を書いているのではない。読んでおもしろいと思ってもらえたらそれでよいのだ。

 商業映画にも色々とあるし、映画ならどれでもいいと思っているわけではない。東浩紀茂木健一郎養老孟司の鼎談集『日本の歪み』を読んで、東さんが日本のアニメ映画に触れて宮崎駿から庵野秀明までのアニメが好きで、昨今人気の新海誠の『すずめの戸締まり』などは国民的アニメ映画になってしまっていて好みでないとコメントしていた。まことに同感で、僕もここ十五年ほどの日本においてすっかり人気が定着した観のある新海誠細田守のアニメ映画はあまりおもしろいと思わない。彼らのアニメにそれなりのクオリティの高さがあり、観る者を納得させる出来映えの映画になっているのは確かだが、新海誠細田守も社会にとって有益な映画を撮る人たちで、なんというか戦前の「少年倶楽部」誌のキャッチコピー「おもしろくて、ためになる」を連想させるのだ。社会に寄り添った映画を見せられても心から愉快な気持ちにはなれない。僕は世代的には新海誠に近いが、志向性については圧倒的に庵野秀明を支持する。僕は新海派でも細田派でもなく庵野派である。「ためになる」映画は僕には要らないのだ。僕は「おもしろくて、ためにならない」映画が好きであり、拙作もまたおもしろいが社会のためにはならない。子供の教育とか成長とか人間の向上心などといった近代の国民国家のスローガンに適ったフィクションには特に関心がない。そういうまじめなことはまじめな作家がやればいいと思う。僕には創作活動において抱く社会的な使命感は皆無に等しいのだ。

 拙稿をひと月余りかけて書き終えてから安部公房の『壁』を読み返した。実は『壁 ─⁠─⁠S・カルマ氏の犯罪』は安部公房の諸作品のなかでいちばん好きな作品であり、有名な『砂の女』以降の作品群は『箱男』や『密会』なども含めて純文学になってしまったから大して好みではない。まあそれはともかく、安部公房の『壁』は現実を問題にしていると解釈されうるギリギリの線において書かれたものであり、発表当時は芥川賞の選考で「何もない」と歯牙にもかけなかった宇野浩二のような人もいた。この作品はルイス・キャロルのナンセンスにフランツ・カフカの風味を多少まぶしたものを安部公房が自己流にアレンジした色調が濃いと思うが、ほとんど童謡そのもののようなルイス・キャロルの世界を受けて軽やかなブラックコメディに仕立てた『壁』の安部公房は、その後の彼のどの作品よりも自由闊達でユーモラスである。「第一部 S・カルマ氏の犯罪」で主人公が裁判から逃れたあと、時計や名刺や手帳やネクタイなどの身のまわりの持ち物が無生物にもかかわらず互いに喋り合い革命を叫ぶくだりはG・オーウェルの『動物農場』の物質版という感じで、ネクタイが即興で歌う革命歌─⁠─⁠になっていないが─⁠─⁠など秀作と言ってよい。

 

《 おれは長い

  長いけれども蛇ではない

  なぜなら蛇ではないからだ 》

 

『壁』に登場するキャラは人物以外の物体も含めてみな自分自身を超えられない連中である。革命歌を歌おうと、裁判をしようと、だれもが自分自身の属性に閉じ込められており、その意味で彼らはライプニッツの窓のないモナドのような存在だが、各人が自分の主張こそが正当だと考えて振る舞うのが滑稽で笑える。「第二部 バベルの塔の狸」のとらぬ狸─⁠─⁠「とらぬ狸の皮算用」という諺に因む─⁠─⁠はルイス・キャロルがアリスの本にマッドハッターやハンプティダンプティなどを実体を伴って登場させたのと一緒だろう。「第三部 赤い繭」はもともと『壁』とは別に書かれた短編をまとめて『壁』の一章に仕立てたものか、それともこれらの短編から想を膨らまして『壁』が生まれ落ちたのかわからないが、第一・第二部より一層童話的な内容である。特に小品の「赤い繭」は明快な美しい文章で綴られていて、国語の教科書に載っていたこともあるから安部公房の作品のなかではポピュラーだろう。しかし第三部が第一・第二部と積極的な関連があるのかといえば、あまりそうは思われない。のちの『箱男』終盤のフラグメンツがこの様態を反復している。

 今回『壁』をざっと読み返して安部公房の限界を感じるとともに書き手としての親近感を覚えたことを表明しておく。限界を感じたのは第一にこのナンセンスコメディにはいささか硬い言葉が目立ち、本家ナンセンスのルイス・キャロルと比べると学校の優等生が書いたテキストだとどうしても感じてしまう点である。第二にこの連作にすでに人が壁に化けるとか繭に化けるとかの人間の人間以外への変身モチーフが試みられている点で、変身モチーフが有効に機能する分だけ安部公房の小説は内容にパースペクティヴが施された作物なのだ。しばしば「無国籍性」を指摘される安部公房作品だが、国籍が不明瞭な事態などフィクションにとって本来取るに足らないことである。フィクションの言語に国籍なんてもともとない。現実的な説得点を希求する人たちがあとからもっともらしくつけ加えた慣わしなのだ。星新一の作品を読んで国籍を問うた人がいただろうか? 

 安部公房の無国籍性とは、実際には「これ、日本のことだよな?」「うーん、どうだろう……」という詮議を促す程度に現実との照応関係を意識させる要素なのであり、少なからぬ人が現代日本を隠喩的に表象した世界ではないかと思料する─⁠─⁠その臆測が間違っているともそうでないとも言いがたいが─⁠─⁠読み物にほかならないのだ。その萌芽は『壁』にも確かにあって、第一部は「見渡すかぎりの曠野です。/その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです」と自ら宣言して終わる。このラストは「静かに果てしなく成長してゆく」というシンボリックな形容を用いて結ばれているがゆえにもはやナンセンスとはいえず、現実との関連において解釈されることを許してしまう性質を帯びている。それとともにその後の安部公房の作品が「◯◯に変身するとはどういうことか?」という一点をめぐって展開されることを暗示している。変身譚は古今東西、出口への脱出劇であり、現実にあり得ないものへの変身は閉塞した現状からいかに脱出できるかという問いかけなのだ。このモチーフを取り組むべき問題としてまじめに考えてしまうとコメディでなくなる。安部公房が『壁』以後にSFを幾つか手がけたのち、『砂の女』などの純文学小説へと転じたのは早い話がまじめに考えてしまったためで、大江健三郎など「まじめな」若手作家の台頭に刺激された可能性はあるし、共産党を除名されたら能天気にコメディを書いていられないという実生活上の事情も与っていたかもしれないが、とにかく中年期以降の安部公房は『壁』の世界に再び戻ることはなかったのだ。

 もうひとつ『壁』の限界について述べると、この小説に用いられた表現、すなわち言葉の連なりが今の僕には少々物足りない。さっき引いたネクタイの革命歌はこの作品のなかではおもしろい部類であって、それに匹敵するナンセンスなギャグが横溢しているわけではない。もっと笑わせろ、と正直思う。また主人公が「世界の果」へと向かうことを強いられる第一部の後半から終盤にかけての展開は終始主人公の視点のままで進行する─⁠─⁠途中で主人公自身により一人称から三人称「彼」へとシフトするけれども─⁠─⁠視点が固定されてただ周りの時空ばかりが奇妙な変質を遂げるという語りの軸の不動性が退屈で、これは「私個人の」現実を赤裸々に吐露する日本の近代小説の伝統に近しい態度だと思う。

 敗戦からわずか五年でナンセンスコメディを生み出したのは時代を鑑みればおどろくべきことかもしれないが、残念ながら不徹底に思えるのだ。「世界の果」へ向かうのであれば語りの軸を移して砂漠のなかを彷徨する主人公をですます調でなしに主人公から─⁠─⁠でなくともよくて、タイピストのY子が書いた手紙でもよい─⁠─⁠だれかへ宛てた手紙によって語らせるとかなんかありそうなものだ。後年の『箱男』のなかで安部公房はさまざまな声の交錯を想わせる視点人物の交代を試みるが、『箱男』の一連の荒唐無稽な経緯の根底には実は「人はいかに生きるべきか」という近代文学の主題のヴァリエーションが横たわっており、その意味でただ単に「おもしろい」だけでなく本当は「おもしろくて、ためになる」読み物なのだ。「ためになる」要素が鼻につかない程度にさり気なく使われているけれど、明らかに社会に対してどのような生き方が可能なのかという問題に悩む読者を惹きつける作物なので、本質的には阿部次郎の─⁠─⁠同じアベでもアベちがいの─⁠─⁠『三太郎の日記』みたいなものだろうと思う。安部公房は生前アヴァンギャルドだと思われていたが、僕は近代日本文学の伝統に棹差した作家だと思っているのだ。

 手前味噌のようだが、拙作は近代日本文学の伝統とは特に関係ない。拙作は純文学ではなく星新一の系譜である。こないだの短編「りかちゃんとやってる」を近代文学の伝統に連なるものと思う人はおそらくいまい。拙作を詰まらないと思う人はもしかしたら潜在的に近代日本文学の伝統を信奉している人かもしれないとも思う。必ずしもそうでない人のなかにも拙作「りかちゃん」を肯定できない人がいると思うが、そのなかの一部の人はおそらく作品に性的なモチーフや恋愛要素が出てくるだけで嫌悪する特殊なタイプなのだ─⁠─⁠風俗紊乱を忌む道徳的主張ゆえではない─⁠─⁠個人の趣味嗜好において恋愛や生殖を毛嫌いする人なので、このタイプの人がいかに拙作を貶めようと顧慮に価しない。ご自身に性欲があろうとなかろうと構わないが、フィクションに生殖が表れることを嫌悪する人は人間の見方が感性レベルから硬化している。その硬化した感性と考え方はかなり少数派のものにすぎず、多くの他人と共有し得ない極私的な性向だという事実を自覚することが嗜好性のマイノリティにとってあらまほしき態度であろう。

 

 

 

 

 

森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』

 

 

 

 遅ればせながら森見登美彦の『シャーロック・ホームズの凱旋』を読み終わった。森見さんの近年の作品はかなり前に雑誌やウェブ媒体に連載したものを加筆改稿して単行本化したものが多く、この作品も二〇一六年から連載していたものであるらしい。単行本が売り出された当初はかなり売れていてベストセラーにも書名を連ねていたと記憶する。「ダ・ヴィンチ」誌が『シャーロック・ホームズの凱旋』と森見さんの特集記事を組んだりしていたから宣伝もバッチリ奏功したのだろう。とはいうものの、刊行から数ヶ月は本屋に平積みされていたが現在は棚にもあまり見かけない。

 この作品を読了して、正直なところ徒労感しか覚えなかった。森見さんの近年の仕事として『夜行』『熱帯』そしてこの『凱旋』に至る迷走の譜はいよいよ終わる兆しが見えて来ない。このままではいけないと勝手に心配しているから無遠慮な感想を述べさせていただく。僕は版元や業界に配慮して嘘でも提灯持ちの肯定的レビューを書く翻訳家や書評家とはちがうのである。

シャーロック・ホームズの凱旋』は出だしの章はまずまずおもしろかった。ホームズとワトソン、モリアーティ教授にメアリ、アイリーン・アドラーらホームズ物の著名な登場人物たちにコナン・ドイルの原作とは別のキャラクターが与えられ、十九世紀末のロンドンとごちゃ混ぜになった京都を舞台に名探偵、物理学者、警察官らの各々の「スランプ」をめぐるやり取りが綴られていく。そこまではよい。いつもの森見さんの小説に登場するキャラがそうであるように一篇の前半部分に京都の住人として描かれたキャラたちは魅力的であり、森見さんには作中人物の言動と性格のおもしろさによってプロの小説家となった面が多分にあると思える。ホームズとモリアーティがスランプに陥った者同士の共感を互いに抱き合ってやくたいもない会話に耽っているとか、ホームズがマスグレーヴ家の竹林に籠もって竹によじ登り、降りてこないくだりは笑える。

 

《 私は青竹を揺さぶってみたが、ホームズはいっこうに動じなかった。「いくら揺らされてもへいちゃらだね」という得意そうな声が腹立たしい。いくら揺さぶっても、大きくしなる青竹の動きに合わせて、薄汚れた尻が上空でふわふわと揺れるばかりだ。》

 

 マスグレーヴ家の竹林の付近の窪地で当主レジナルドとホームズらが「月見酒」を催す場面、月明かりの下で枝に刺したマシマロを食べながら一献やるひとコマはまぎれもなく森見さんらしいくだりとなっている。おそらく森見さんはこの種の他愛もない生活情景における役に立たない趣味に没頭する閑人を描くことに創作のモチベーションがあると思われる─⁠─⁠このモチベーションは書き手自身が思っている以上に作品の強力な因子である─⁠─⁠ホームズが竹によじ登って降りてこないのも単に逃避しているのでなく、遊んでいるのは明瞭で、こうした大人たちの無意味な余裕ある遊びこそが作品世界の核にあるのは疑念の余地がないのだ。

 ところがマスグレーヴ家のあかずの間「東の東の間」に踏み込む辺りから様子がおかしくなってくる。部屋のなかに戸外の風景が広がったり人間が部屋から消えたり、短くない歳月のあいだ眠っていた人がひょっこり戻ってきて庭の番をしていたりという怪異が語られ、十二年前に失踪を遂げた少女が帰還して代わりにモリアーティ教授が消え失せるという超自然現象が起こる段になると説得力がなさすぎてついて行けなくなる。第三章「メアリ・モースタンの決意」以降の部分は作中に出てくる小説をめぐってメタフィクショナルな内容が進行していき、『熱帯』の虚々実々の展開、どれが虚構でどれが作中における現実なのかわからなくなるパラレルワールドの観を呈する。そしてエピローグになると再び作中人物らは京都の住人に戻るのだが、それまでの経緯について匙を投げたかたちで合理的な収拾をつける気配もなく曖昧な結末を迎えてしまう。

 今回ガッカリするとともに「……え?」と絶句したのは森見さんが『熱帯』で試みた失敗と断定せざるを得ないパラレルワールドネタを再び採用した点であり、それがおもしろいと彼が本気で思っているのだとしたらヤバいと思う─⁠─⁠森見登美彦は拙作とちがって作品にしかるべきパースペクティヴを施す書き手であり、それなりにリアリティに訴えて読者に説得点を示す手腕にも長けている─⁠─⁠だが近年の彼の仕事にはもはや説得点を無視しているとしか受け取れない超自然的事象への傾倒とその枠組みであるメタフィクショナルな記述へのあまりにも無防備な没入があり、作者の森見さん個人の健康状態の悪化に起因するスランプとの関連を思わずにはいられない。作品に内容のパースペクティヴを有さない読み物、例えば千夜一夜物語とか星新一の諸作品とかであれば百歩譲って機能しうる可能性もある。漫画の『ドラえもん』における主人公のび太の就眠中の夢に夏休みの始まりと終わりが幾度も繰り返されて内実がわからなくなるエピソードなども、かなり短いスパンに描かれているからこそ妥当性を持ちうるので、こうしたネタは実は長い作品には不向きで本来は短編向きなのではなかろうかとも思える。

シャーロック・ホームズの凱旋』と題されているこの小説の本当のタイトルは「シャーロック・ホームズの旋回」であろうと思える─⁠─⁠見舞われた苦難からホームズがみごとに脱却して華々しくカムバックする経緯はこの本のどこにも記されていない─⁠─⁠あるのはただひとつの地点をめぐる堂々めぐりであり、解決を宙吊りにしたまま解き明かされることのない謎を並べていくことであり、この旋回が空回りであることはだれの目にも明らかなのだ。森見さんは彼が本来なすべきフィクションの範疇を逸脱して、材料を力ずくでねじ伏せようとしている。病に冒されてそこから癒えつつある者がとるべきスタンスはがむしゃらに技術を行使することではあるまい。自分自身の体臭や癖を見つめ直して身の丈にそぐう衣類を着ていくことであろう。

太陽の塔』と『四畳半神話大系』を淵源に持ち、四畳半の狭い空間に生起する箱庭的な宇宙に自身の資質に適した領分があることをかつての彼は率直にコメントしていた。それは正しいし、表現のヴァリエーションを拡げて小説を刷新していくならメタフィクションパラレルワールドなどの森見さんの文体から乖離した絵空事を手がけるのではなく、もう一度自身の文体によって錬成可能な表現を見出して、モチベーションが真に駆動される題材と向き合うことが必要だと正直に思う。

 先ほど引いたホームズが竹によじ登って降りてこないパラグラフに使われた言葉こそが森見登美彦の言葉なのだと僕は思う─⁠─⁠「いくら揺さぶっても、大きくしなる青竹の動きに合わせて、薄汚れた尻が上空でふわふわと揺れるばかりだ」─⁠─⁠自分が世界を知覚する主体であるばかりでなく、滑稽な客体となることをも受け入れること。この余裕ある身振りは長い持続に耐えないというのであれば、わざわざ長い小説を書かなくてもよかろう。森見さんはかつて『宵山万華鏡』や『きつねのはなし』などの魅力的な連作長編というかオムニバスを物にしていた。僕は森見さんに再びそれらの形式が実現していた世界に戻ってもらいたいし、そのほうが本領を発揮できることは請け合うのである。佐藤究の『テスカトリポカ』のような大作を手がけなくては、というエンタメ作家の世俗的な野心は森見さんには無用なものだと僕は確信している。『きつねのはなし』の土地と家屋、また空間に浮遊する人物と事物を記述する筆遣いのすがすがしい空気感、あたかもアルベール・マルケの風景画のような絵画のフォルムに対する清涼な空気の優越こそが森見登美彦の魅力であって、ファンタジー小説の書き手だからファンタスティックなモチーフを描かなければならないという観念も積極的には要らないのである。モチーフの選択はごくしぜんに湧いたものこそがふさわしいと言えよう。

 以上、頼まれもしないのに言いたいことを書かせてもらったが、僕は森見登美彦の愛読者だからぜひとも言っておかねばと思った次第である。ご自身がいたもとの場所へ帰還するのは圧倒的な勝利による凱旋ではなく、目に見えない彼処からじわじわと水が滲み出て一帯を占めていくようなありようにちがいない。そのような復帰を願ってやまないのである。